豚骨醤油味噌ラーメン

いろいろ書きます。

今月いっぱいおやすみのおしらせ。

noteは不定期更新だし、Twitterはそもそも定期更新とか不定期更新とか、そういうのとは無関係な場所だけど、はてなブログだけは更新日を決めて書いているのでおしらせ。

 

 

今年の初めに、「なんだか今年は、小説を書かないような気がするな」という予感がしました。

その予感は芯を捉えたボールみたいに、かーんと頭上を飛んでいくような感じで、なんというかすごくしっくりくる感じでした。

ということは、エッセイをしっかり書くのかもな、はたまた短歌にもう一度もどるのか(わたしは高校生のころに短歌をやっていた)、もしくは今企画している同人誌の、書き手じゃなくて作り手側に回るのかもしれないな、と思っていました。

 

そしたら、昨日とつぜん、「あれを小説にしなきゃ」というテーマがポンと浮かんでいてもたってもいられなくなりました。

なので、このブログは今月いっぱいおやすみして、小説を書きます。

また4月になったら再開します。ではでは。

なにを書くのか?

 

 

「なにを書くのか?」というと、すごく壮大そうな話がはじまりそうだけど、そんなことはない。

今日も、私というかなり限られた視野から見える、非常に限られた話をします。

 

私は基本的に、「いままさに直面している、フレッシュな怒りについて」をインターネット上に書いて出すことはほぼない。

「ほぼ」とは、どれくらいの頻度かというと、直近一年で2度だ。

 つまり、私はかなり意識的にしか、インターネット上に感情を出さないので、回数を数えることができる。

 

なんども繰り返すようだけど、私は怒りを持つことは何も悪くないと思っている。

というか、怒りは尿意みたいなもので、自然に湧き上がることだから、「怒りが湧いてきた、だめだ」と思うのはもはや自然の理に反していると思う。

しかし、怒りを「表明するかどうか」は選ぶ。つまり、「怒っていること、なんでもかんでもいう」というわけではない。

 

その大きな理由としては、勘違いで怒りを表明することを避けるためだ。

「この怒りは、正当か、不当か」と、怒っていることそのものを疑うわけじゃない。私がいう勘違いとは、「事実誤認があるかないか」という意味だ。

あとは、「すごく長い目で見たとき」のことを考えて、「怒りを表明するか、しないか」を考える。

 

 

だからだろうか、私は、どうやら人によっては「不幸な目にあったことのない、順調に人生を歩んできた人間」に見えるらしい。

 

以前、私の書いたエッセイに、「あなたは幸せな人生を歩いてきたからそんなことが言えるんですよ。」というコメントがついたことがある。

 

そこには、私に対する批判的な意図が含まれていた。つまり、その人の言いたいことは、「お前は不幸な人間に対する想像力がまるでない」ということみたいだった。

 

私はそのひとのことを、なんとなく知っていた。私が作品を更新すると見にきて、たまにコメントをする人だった。

 

私は、「ただ幸福なだけで人生を乗り越えてきた人」なんてこの世界に一人もいないと考えているから、「全員がなんらかの不幸な目にあったことがある」という前提で考える。

だからそのコメントを読んで少し驚いた。

「この人は、この世界に、幸福なだけで歩んできた人間がいると思ってるのか。すごいな」と思った。

 

だから聞いてみた。「どうして私が、不幸な目にあったことがないと思ったんですか?」と。

 

すると彼女は、「文中にあなたが不幸な目にあったことが書いてありましたか?書いてあったならすみません」と返してきた。

 

私はそれで彼女と会話をする意思がなくなり、それ以上のレスをつけることはなかった。

 

不幸な目にあったことがあるなら、「不幸です」って書かなきゃだめか?

虐待にあったことがあるなら、「虐待にあいました」と表明しなきゃだめか?

 

たしかに私は、そういう話題をできるだけ書かないようにしている。書くことが悪いと言っているわけじゃない。ただ、「私」はそれを表現したくないだけだ。

 

書いてあることの文面をただべたっと読んで、「お前は幸せそうだな」と僻み根性丸出しのコメントをつけて、なんなんだこいつ、と思った。

 

その人は、ある界隈でけっこう人気者としてTwitterのタイムラインに流れてくる人だったから、私はその人と関係のありそうな人を全員ミュートにした。 

別にわざわざ嫌な気持ちになる必要もない。

 

と思っていたら、つい先日、想像もしなかった場所からその人が「こんなに人生の傷について思慮深く、優しく配慮できる人はいない」という触れ込みで紹介されているのがタイムラインに流れてきて、白目をむいて倒れそうになった。

たしかに、「自分の」傷についてはえらく丁寧に描写する人ですもんね、と思った。 

 

改めてミュートのリストを更新し、「もうこのことについて考えるのはやめよう」と思ったけれど、あのコメントのやりとりをした時の気持ちがぶり返してきて、供養のためにこの文章を書いている。

 

まぁ、たしかに私、書いてないからね。

書いてないし、センター試験の国語なら、「書いてないことを拡大して想像する」のはアウトだもんね、でも、これ、国語の試験じゃないからね。

人生だよ。

 

ということを、この間クラブハウスで他に観客がいないことをいいことに、話し相手の方にだーっとしゃべってしまった。

その他にも、「これまでネットで嫌だったこと」をどんどんと喋りながら、「私が抑圧した結果、この人に愚痴を聞かせることになっている」とめちゃくちゃ反省した。

 

というわけで、抑圧しすぎるのもよくないな、と反省した。

 

その反省の意味を込めて、今日は実験的に「インターネットで嫌だったこと」を書いてみることにした。

 

これを読んで気分を悪くしてしまったらすみません。調節が難しいな。

季節の変わり目だから、そっと動こう。

 

 

肌寒いかもしれないと思って厚着をして出かければ背中にほんのりと汗をかき、薄着をして出かければ肌寒かったりする。

ただでさえ、「温度や、季節に見合った服装」というものを選ぶのが苦手なのに、この季節はますますだめだ。

 

最近の私は、なにを考えて生きてたんだろう、と、もどかしい。

ずうっと眠っていたところに、がつんと棒で殴られて、起こされたような気分だ。なにを言い訳していたんだろう、どうしてためらっていたんだろう、どうして、憧れの作家さんの作品を眺めて、胸を打たれることだけで満足していたんだろう。

 

その1000分の1の時間でいいから手を動かしていてくれれば。

 

最近、『眼高手低』という言葉をTwitterでよくみかけるようになった(またTwitterの話してる)。

 

これは、「眼高く、手低し」と訓読みする。

ずっと何かをみているから、眼は肥えているが、見ているだけなので、実際に何かをやらせてみると下手くそなことを言うのだという。

 

すごく、わかる。

 

だからある種の人(たとえば私のような人間)は創作から離れていくんじゃないか、と思うような、確信をついた言葉だ。プライドが高ければ高いほどゆるせないことも多いから。

 

「許せないもの、不可解なこと、わからないこと、できないことを、じっと抱えておけることが、その人の器だ」という話を以前読んだ。

 

賢者の秘密の手帳をちょっと開いて見せてもらったような、大切なことが書かれていると思った。そして、人の器の大きさは、他者を許容できるかどうかで決まったりしない。その、「他者への許容」だけが一人歩きしていることこそが、器の狭さだと思う。たしかに、他者はその「わからなさ」にふくまれているとも言える。「許せなさ」にも、「不可解」にもふくまれている。

 

けれど、「他者」というだけでは、「他者のなにと共存すべきなのか」が曖昧なのだ。

 

「わからなさ」を心にためておけること。

その、「もぞもぞするような、気持ちの悪さ」と一緒に生活ができるということ。

たしかに、それが器というものだろうな、という気がしている。

 

機嫌を伺われるのが嫌いだ。

ご機嫌なのに、「機嫌が悪くないですか?」と伺いを立てられているうちに本当に機嫌が悪くなりそうになる。

あなたを安心させるために、どうして私が呪いにかけられなければならないのか、とそれに腹立たしく思う。

腹を立てても仕方ないんだけど。

 

 

いろんなことが目まぐるしく動く季節だ。

だからこそ、そっと動こうと思う。周りに嵐が吹き荒れているからといって、私が嵐そのものになる必要はない。

 

木曜日の断絶

 

 

機能が更新日だということをつるんと忘れていた。

人とclubhouseでお話しする約束をしていたので、「今日は木曜日」ということは朝から何度も自分に言い聞かせていたのだけど、「木曜日だからはてなを更新する日」というつながりはぷつっと切れていたみたいだ。

 

こういうことが結構ある。

 

そんなわけで金曜日の朝にこの日記を書いている。

 

いま、同人誌をつくろうとしている。

はじめはひとりだけでつくろうと思った。

ひとりで作品を用意して、ひとりで表紙をつくり、ひとりで印刷する紙を選び、そして発行しよう、と。

「全部自分が決めたい」と思っていた。「全部自分でやりたい」と。

 

でも、ひとりで同人誌をつくろうと考えを練っているうちに、「誰かと一緒に作りたい」という気持ちがポンと生まれた。不思議だった。

 

 

わたしのTwitterのDMには以前、よく知らない人からのメッセージが届いていた。

Twitterは「読み専」で使っていたんだけど、ある時からnoteとの連携をはじめた。

そうすると思ったよりたくさんのフォロワーさんにフォローしてもらった。

 

その時は、Twitterを「運用する」ということさえ頭になかったし、Twitterの暗黙のルールのことも知らなかったし、「わたしごときがTwitterのフォローバックをしないなんて、傲慢と思われるんじゃないか」という思い込みを持っていたので、フォローしてくれた人のことをよく知らないまま、機械的にフォローバックしていた。

 

人によってはフォローバックを「仲良しのあかし」と思う人もいるみたいで、認識に大きなズレがあったのだろう、「確かにフォローはし合ってるけど、この人のことはよく知らない」という人からのメッセージだった。

 

その人からのメッセージには、「創作は孤独じゃないですか」と書かれていた。

 

返事にこまった。考えたこともなかったからだ。

創作は、一人になるためにするものだと思っていた。

「人の悩みはすべて人間関係にまつわるものだ」と言ったのはアドラーだったか。

わたしは心を巣食う心配事や、不安を締め出すために創作をしていた。つまり、アドラー的に解釈するなら、わたしは一人になるために創作をしていた。

 

 

 

「創作は孤独かもしれないけれど、書くことを通して、誰かに繋がれると思っています」とわたしはその人に返事を書いた。返事は書いたけれど、実感はなかった。自分の気持ちを説明するための言葉というよりも、その人を納得させて、そして黙らせるために書いた返事だった。

 

 

だとすれば、今まさにこの手が打ち出しているこの文字は、一体誰に届けるためにあるのだろう。

 

そんなことを、去年からじわじわと考えていた。

 

わたしの人生は、多くの場合「〇〇からの逃避」のためにあった。

地元からの逃避のための進学、家族からの断絶のための一人暮らし、「まとも」な世界から逃げるためのめちゃくちゃな遊び。

 

ずっと一人になりたくて、人と「接触したい」という感情は発作的にしか発生しなかった。

どうしても人に会いたくなったら、誰かと飲みに行って、そして一晩むちゃくちゃに遊べば、それですっきりとしていた。

 

なんの話だっけ。

そう。

わたしはおそらくもう、「逃げるのをやめたい」んだと思う。逃げることをやめて、むきあいたい。

 

そのためだけに同人誌を作ろうとしている。

 

創作って、たくさんの「どうして」に攻めこまれる戦いでもある。

 

どうしていまこの言葉を使ったの。

どうしてこの表現だとダメなの。

 

どうして書くの。どうしてつくるの。

 

そのひとつひとつに、答える必要はないにしても、もしも「どうして同人誌を作りたいんですか」と聞かれたら、わたしはそんな極めて個人的な理由でつくっている、と答えるしかないな、と思っている。

 

でも個人的かもしれないけれど、意思の中では極めて強固な意思なのだ。

「自分を生きる」とは

 

「よい問いを立てることができたなら、それはもうほとんど解決したのと同じことだ」というような名言があったと思う。

 

「あったと思う」というのは、いつかどこかのブログか本で読み、「なるほど」と思ったもののどこで読んだのか思い出せないということです。

 

今日みたいに題材にしたくなったときのために、いつも本を読んだら『しるし』をつけておこうと思うんだけど、私はたぶんしるしをつけるのが下手なんだと思う。

いちおう、本棚の中には「これは」と思う箇所に付箋を貼った本もある。ただ、その付箋を貼ってある本を「あの本から引用したい」と取り出すことはほぼない。というか、一度もないかもしれない。

 

読み進めていくときに「お」と思うところと、後からしみじみと、「あれってどういうことだったんだろう」と思い出す場所は、いつもだいたい違うところだ。

 

それがどういうことなのかわからないけれど、旅行で「写真に撮りたくなる場所」と、旅行のあとで「あそこのあの景色はよかったな」と思い返す場所が違うようなものだろうか。

たんに自分の好みがまだ把握できていないということなのだろうか。

 

先日、Twitterでこんなツイートに出会った。

 

 

 

「なんで彼は私のことを大切に扱ってくれないんだろう」という問いよりも「なんで私は大切に扱ってくれない男の相手をしているんだろう」という問いのほうが大事です。

 

このツイートを読んだとき、「それだな〜!!!!」と膝を打ちまくった。

もしもタイムマシンに手紙を乗せて、10代のころの自分に送ることができるなら、このツイートを100枚くらい印刷して送りたい。

 

まさに、「よい問いを立てることができたら、解決したのもほとんど同じ」の好例だな、と思う。

 

最近、「自分を生きる」とか、やたらと「自分」にフォーカスしたアドバイスをよく聞くようになった。

あまりにも流行りすぎて、「自分のことだけを考えて生きるのは無理だ」とか、「自分」にフォーカスを当てることに苦痛を感じる人さえ見かける。

 

それでも昔よりも時代は変化しているんだな、と思うのが、「自分を生きる」なんて台詞、もしも10年前なら流行らなかっただろう、ということだ。

「ジコチュー」って鼻で笑われて終わりだったと思う。

私はちなみに、「自分を生きる」という言葉が流行ってくれたおかげで、『悩みとは、「自分が行動すれば解決する悩み」と、「誰か(世界)の性質が変化しない限り解決しない悩み」の二種類に分けることができる』ということに気がつき、慢性的に感じていた「生きることの苦しみ」が大幅に減少した。

 

どうして「生きる苦しみ」が減るのか?

 

それは、「他者」というのは重たいからだ。

「重たい」というのはどういうことか?

 

たとえば、

「今から道を歩き、そこで最初に出会った人にどうにかしてピザまんをおごってもらってください」という指令と、

「今からコンビニに行き、ピザまんを買ってきてください」という指令の、どちらが達成するのが簡単だろうか。

圧倒的に後者ですよね。

 

私は悩みを「自分が行動すれば解決するかどうか」という軸で見るようになって、圧倒的に気持ちが楽になったし、昔はその軸さえ持っていなかったから、「どうして私の人生はこんなにも困難なんだろう」と思っていた。

なんてことはない、「動かすのが難しい物事(世界、他者)を動かす方法について考えていた」だけのことだった。

 

「自分を生きる」という言葉が流行り始めたとき、その意味の「つかめなさ」に途方にくれた。

ぜんぜん意味がわからなかった。

わがままを押し通すこと?

自分勝手を極めていくこと?

つまり、自分の欲望に忠実になっていくということ?

 

おそらく、それはとてもシンプルで、ただ、「今までうやむやになってきた境界線をしっかり引きましょう」ということだと思う。

 

私たちの自他の境界線は、学校教育によって一度踏み荒らされる。

 

たとえば、「髪型を決める」にしたって。「私の体のこと」なのに、「学校がそのフォルムの決定権を持っている」という境界線のちぐはぐさ。

 

そういう風に、「境界線を踏み荒らされること」にあまりにも慣れすぎると、「境界線が溶け合っていること自体に気がついていない」というところにまで行ってしまう。

「よい問いを立てる」ということ。

 

むずかしいけど、立てた問いに対して「ウンウン」と悩んでしまうときには、「そもそもこの問いはよい問いだろうか?」と考えてみるのもいいのかもしれない。

 

線を引く

 

 

気を抜けば、自他との境界があやふやになる。

あの人の人生に起こった苦しみは、私の苦しみとなり、同じくらい自分の胸を締め付ける。

 

そういう傾向があった。はっきりとした時期は覚えていないけど、おそらく高校生くらいの頃に、「こんなに他者の感情にずぶずぶになってたら、生きていけない」と思って、それから他者の感情をシャットアウトすることになった。

 

自分と、他者の区別をすること。自分と、他者は違う人間だと認めること。

 

この作業は、思ったより大変だった。区別がちゃんとつくようになったのは最近と言ってもいいくらいだ。

 

私の母は、「そんなことをして、お母さんが悲しむと思わなかったの」という怒り方をする人だった。「お母さん」の気持ちをちゃんと想像する、というのは、その文面だけ聞くといいような感じがするかもしれないけれど、「バクチの結果を予測できなかったら、とんでもない折檻が待っている」というのと同じ意味だった。

「それをやったらどんな気持ちになるか」なんて、自分だって想像できないのに、ましてや他人である母の気持ちを100パーセントの確率で当てるなんて無理だ。

 

だから、私は、「他者と自分の気持ちを極端に重ね合わせて考える」人間になったわけだけど、それは自分と他者との境界をどんどんとっぱらっていくことだった。

 

「他人を、自分と同じ重さで考える」というのは、それこそ血縁でもない限り耐えきれない重圧だ。

 

だから、話はそれるかもしれないけれど、「介護」や、「公的支援」が「全く関係のない第三者によって施されること」にはとても大切な意味があると思っている。

 

たとえば生活に困窮している友達を、特に金銭の絡む方法で助けるのは、それこそ肉親を思うくらいの気持ちの覚悟じゃないといけないのだろうな、と思う。「人が自立するまでの世話をする」というのは、それこそ親の仕事じゃないですか。親がやるべき、という意味じゃなくて、「親くらいの、関わりの糸が太い人」がやる仕事という意味です。それか、「その支援をやることこそが私の仕事だ」という人。つまり、親でも、仕事でもない人が、人の生活を支えるってすごく大変なことだろうな、と思う。

「これくらいの金額なら」で関わってはいけない仕事のような気がする。親くらいの太い糸を結びたいのならともかく。あと、「金は出すけど口は出さない」ができるくらい、とんでもない大富豪とかなら、可能性もあるかもしれない。

 

この、「線を引く」の訓練がまだちゃんとできない時、SNSはつらい場所だった。

コミュニケーションの土台が、「自分よりも先に相手の気持ちを考える」で形成されてしまっているものだから、自動的に「相手」として対峙した人の気持ちを考えてしまう。

 

そうかくと、「いい人そう」という感じがするかもしれないけど、「怒られないようなコミュニケーションをしなくちゃ」と気張っていて、自分では他者のことを考えているつもりだけど、実は「怒られない自分」のことしか考えていない上に、めちゃくちゃくたびれるところだった。

 

 

「今、自分は誰の気持ちを予測しようとしてて、どんな結果を回避するためにそれをやろうとしている?」

と、何べんも自分に問いかけることによって、次第に他者との線を引くことができるようになった。

 

ちなみに、そんなわけで「類友」というか、「自他の境界がうまく引けない人」って、自分のことのようになんとなくわかるから書くと、自他の境界がうまく引けない人は、私が今書いたような、「何遍もやった」「次第に」できるようになった、を無視しやすい。

「あの人」と「私」の線が引けないから、「あの人にできたから、私にもできる」を、ある意味歪んだメッセージとして受け取る。

「あの人のやったことは、私のやったこと」という処理を頭の中でしてしまい、積み上げるべき訓練を積み上げずに、「私にもできるはずなのに、どうしてできないんだろう」という怒りを感じやすい。

 

「線を引く」って実はすごく大切なスキルだけど、その冷たい印象からかあんまり論じられない印象があるよな、という気がしたので書いてみた。

 

また気が向いたら書く。

 

 

「怒るな」という人について

何度かの引越しを経て、いまの家に住んでいる。

いまの家はオール電化で、オール電化の家に住むのははじめてだ。

ガスも使う家と、なにか大きく違うところはあるか?と聞かれると、風呂の追い炊き機能がない、というところくらいだろうか。追い炊き機能のついた、オール電化のお風呂もあるのかもしれないけれど、うちの家には少なくとも、ない。

夜の、電気代の安い時間帯に沸かしたお湯をためておき、日中に使う、というサイクル。

我が家は夫も私も長湯なので、お風呂に入っているうちにお湯が冷めてくることがあり、追い炊き機能がないのはけっこう困っている。

しかも、今日日まさか追い炊き機能のないお風呂が存在するとは想像もしていなかったから、引っ越す前に確認すらしなかった。

 

でも、それはそれとしてオール電化のキッチンは好きだ。ボタンひとつで「中火」とか、「170度」とか選べるし、火災の可能性に怯えることもない。

 

ただ、いつもあのガラスの、つるんとした板の上に水の入った鍋をのせておくだけで、くつくつと沸騰にむけた泡が立ってくるのは不思議だ。いまも慣れない。

気のせいかもしれないが、ガス(火)で沸かしたお湯とはなんとなく泡の立ち方が違うような気がする。

 

私は気になったことをずうっとねちねちと考えるたちで、その上おそらく、自分が想像しているよりもずっと私の心は狭い。

むかしはよく「人と比べてどうか」ばかりを気にしていたけれど、「自分の実力は自分の想像よりも大きいのか、それとも小さいのか」を把握する方がよっぽど大切だ、と思う。

 

挫折の原因って、「想像」と「実力」の間に大きな乖離があることなんじゃないだろうか。

評価されないことよりも、「思ったよりも」評価されないことの方が、心にくる。そういうものなんじゃないだろうか。

 

それはそれとして。

「先週、noteで怒りについてはもうやったし、おんなじテーマで何回も書くのやめようよ」という気もしなくはないが、まぁ媒体が違うからいいか、と自分に言い訳して、今日の日記も怒りについてだ。

 

私は、ずっと一貫して、「怒るな」という人が嫌いだ。

自分でも、驚くほど、嫌いだ。生理的嫌悪、と言っても過言ではない。

 

もちろん、「怒るな」という、彼ら(彼女ら)にも言い分はあることはわかる。

彼らの言い分を想像するに、「怒っている人のぴりぴりとした雰囲気が苦手だ」、「怒声が嫌いだ」、「怒ることで自分の言い分を通そうとするところが嫌いだ」、完璧に想像することはできていないかもしれないけれど、そんなところだろうか。

 

彼らの言い分を想像して、こうして書き出してみても、私はやっぱり「怒るな」という人が嫌いだ。

怒りは人から発散されたエネルギーで、そのエネルギーに圧を感じるのはわかるけれど、怒りのエネルギーはまっすぐなのだ。

それに対して、「怒るな」という人もエネルギーを発している。

しかも、彼らだって「怒り」を発している人と同じ、「人を抑圧する傾向」のエネルギーを発している。それは、「怒りそのもの」に比べると、確かに静かかもしれないけれど、鬱屈した、まっすぐには進まない、暗くてネチっとした嫌な気を感じる。

まるでオカルトだけど。

 

私の怒りは、「厄払い」のようなところがある。

嫌なことをされた時に、「もう二度と、私に近寄るな」という意思表示。

私が正しくて、相手が間違っているとかいう話以前に、「何をされても嫌な人」っているし、それはもう、「相性」の問題だ。理屈じゃない。

 

それすらも、見るのが嫌だという人は嫌なんだと思う。

 

でも、気になるのは、そういう人って嫌なことをされた時にどうしているんだろう?ということだ。耐えてるの?自分の体に、嫌なことの責任を全部押し付けて、そうまでして『いい人』でいたいのか。その上他者の怒りに干渉までしたいのか、すごいな、と思う。

自分に「我慢してね」って押し付けた怒りや、ネガティブな感情は、我慢したところでどこにも消えないんだけどね。

 

なんてことを、朝から考えてる私の方が、超絶暗いのでは。

まぁいいか。