豚骨醤油味噌ラーメン

いろいろ書きます。

『ポジションを取る』とは

日々、『なんとなく避けている言葉』がある。

今日はその話をしたいと思うんだけど、思った以上に前置きが長くなってしまった。

いきなり占いの話から始めるが、最終的には表題の話に結びつくので、読んでいただけたら幸いである。

 

わたしは、かなり内面世界側に深入りしやすい傾向があり、四柱推命の運勢エネルギーも6という非常に低い数字を叩き出している。

 

いきなり運勢エネルギーといっても、四柱推命に興味のない方はわからないと思う。

ネットで「四柱推命 占い」で検索し、自分の生年月日を入力してみると、「命式表」という表が出てくる。

無料で命式表を出してくれるサイトでも、だいたいこの表の一番下に『3』とか『11』とか、数字が3つならび、その合計値が横に書いてある。

この数字は、『十二通星』にそれぞれ割り振られている数字だ。例えば、『胎』は3、『冠帯』なら10、といった具合に。

 運勢エネルギーとは、その合計値のことだ。

 

この運勢エネルギーとは、「運勢のよしあし」を決めるものではなく、「現実世界との結びつきの度合い」を示しているらしい。

 

この値は、『3〜36』まであり、数が少なければ少ないほど、内面世界との結びつきが強く、数字が多ければ多いほど、現実世界との結びつきが強い。現実世界との結びつきが強い人は、地に足をつけて、バリバリと出世したり、世界で活躍したり、人脈を築いたり、そういう方向に向かいやすい。

 

一方、わたしのような数値の低い人間は、外の世界でばりばり活躍するよりも、内面世界を深く掘り下げる方向に興味を抱きやすいという。

 

ちなみに、わたしがかつて占ったことがある人の中で、『6』ほど少ない数字の人は見たことがない。だいたいみんな『10』は超える。

 

運勢エネルギーの少ない人に向いている職業には「専業主婦」と書かれいていることが多い。たしかに今まで、ばりばりと働いていた時期もあったけれど、専業主婦がいちばんしっくりきている。

 

占いを「自分をより深く知るためのもの」と思って付き合うのは楽しいが、「占いに従う」という風になってくると話が変わってくる。

例えば、何か別の流れがやってきたのに、「わたしは専業主婦がいいらしいからずっと専業主婦でいる」と頑なになることは、「占いに従う」ことだ。

人は特に「大切そうな選択」を前にすると、視野が狭くなりやすい。だからこそ、広い視点を持ちたい。「占いの世界」の中に「わたしの世界」があるのではなく、「わたしの世界」の中に「占いの世界」があるのだ。

いつでも自分の人生の主導権は自分が握っていないと、なにかにつけて人のせい、世界のせいにする癖がついてしまう。

自分の選択の責任を、自分以外のものに委ねると一瞬は気が楽になる。けど、結局、そういう選択を続けていると、「自分の人生はいつもコントロールできない」という無力感に絡め取られる。

 

わたしは、もともと、ビジネス書を読むよりも、ユングフロイトなどが『内面世界』について考察した本を読むほうが好きだ。

ただ、現実世界との結びつきがあまりにもないため、「それを仕事の役に立てよう」とか、そういう方向に思考は向かない。ていうか、思いつきもしない。

たまに、「そういうやり方で仕事にするのか」と、実際に現実世界で活躍している人を見て驚くばっかりである。

 

というわけで、わたしはこの『運勢エネルギーの低さ』を自分へのちょっとした注意喚起として思い出すようにしている。

 

最近、内面世界に向かいすぎているから、外で何が起こっているのか、世界の流れをちゃんと見るようにしよう。

 

そして、自分が『ポジションを取る』とか、『バリューを生み出す』とか、『人と関わる』とか、そういう言葉をついつい避けていることにも気がつく。

 

でも、たまにそういう、わたしの内面世界の中にだけ存在していた言葉(つまり、知識として知っているけれど、体感としてわからない言葉)が、急に現実世界に結びつき、「あぁ、そういうことだったのか」とわかる瞬間がくる。

その瞬間は、とても楽しい。

 

昨日、あるイベントに参加した。わたしのTwitterを見れば、どのイベントに参加したのかわかってしまうと思うけど、一応「クローズで」と言われていたイベントなので、明記しないし、その中で話されていたことをまるっと書くつもりはない。そしてもし、わたしが今から書く話が、どのイベントの話か気がついたとしても、感想などに書かないでくれたら嬉しい。

 

その中で、「ポジションを取る」という話が出てきた。

わたしはそれまで、その言葉に「なんか熱い」「なんか怖い」というイメージを持っていた。意識高い系の人がラグビー場で円陣を組んで「よおし、ポジションを取るぞ」と叫んでいるような、そんな感じ。

 

そのイベントの主催の人は、わたしの思考を見抜いたみたいに(実際にはわたしへの話ではなく、他の人へ話していたことだったんだけど)、

 

「物事を、『なんか怖そう』『なんか嫌』という視点から見てると、いつまでたっても、インターネットで行動も起こさず、ただ『なんか怖そう』という視点から、批判を繰り返すおっさんたちと同じ位置にしか立てない。そのイメージをまず捨てて、そこからフラットに、冷静に物事をみろ」

 

と言った。

 

「まずポジションを取れ。自分の理想と、自分が現実的にできることのギャップに気づけ。そのギャップに気がついたら、それを地道に埋めていけ。どんなポジションも、その『超地道な作業』の先にしかない。ポジションに立てば、自ずと責任が生まれる。他人のやっていることに食い込んでいくやり方じゃなくて、『あの人はあのポジションから世界を変えていく』『じゃあ、わたしはこのポジションからどういう風に世界を変えられるだろう』という視点を持て」

と。

 

「あぁ、『ポジションを取る』ってそういうことだったのか!」とぐんと世界が広がるような感じがした。

 

それにしても、「言葉の最前線に立っている」人の言葉って、すんごいパワフルですね。

あの熱量を浴びれただけでも「よかったなぁ」と思う。

 

寝る前にそんな熱量を浴びてしまったので、興奮してうまく寝付けなかった。

ポジションを取る、ポジションを取るかぁ…、とベッドの中でごろごろと寝返りを打ちながら考えた。

 

考えたけど、やっぱり「内面世界から現実世界へ結びつけていく」ようなアイディアは浮かばなかった。

まぁ、焦ることもないから、ゆっくりこれから考えてみようと思う。

どこかにいる完璧なわたし

 

 

昔、わたしは健康オタクだった。

 

今から5年ほど前、わたしは法律事務所でフルタイムの正職員として働いていた。

事務所には15名の弁護士さんと、5名の正職員の事務員、それからパートさんが2名(メンバーは曜日によって変わる)いた。

5名のフルタイムの事務員のうち、2名は時短勤務で、人手はぜんぜん足りていなかった。

15名の弁護士さんにつき専属で事務員が付いているわけではないので、誰から指示が飛んでくるかわからない、先生によって仕事のこだわりは違う。

例えばA先生はこのやり方でいいけれど、B先生にそれをやるとこっぴどく叱られる、といったこだわりもある。そのこだわりも15名ぶん把握する。

そんな感じだった。

 

わたしはその頃、前職で勤めていた大学の教授から、「院生になって研究を一緒にやろう」と誘われたのを断っていたところで、挫折感やら悔しさやらで毎日フラストレーションを抱えていた。

 

その悔しさを解消するために、なにを思ったかわたしは司法試験の予備試験の勉強まで始めた。

予備試験とは、「その試験に合格すれば、法科大学院を修了していなくても司法試験を受けることができますよ」というものだ。

昔は司法試験にさえ合格すれば良かったが、15年ほど前に行われた司法制度改革で基本的には法科大学院を卒業して司法試験の受験資格を得なければならなくなったのだ。

 

朝4時に起きる。7時まで勉強する。

化粧をして、さっと部屋の掃除をして仕事に向かう。

仕事の前に、事務所に掃除機をかけて掃除する。

9時から19時頃までは仕事(もっと長引くこともある)。

それから帰って、夕食をつくり、22時から1時までは勉強。

 

というタイムスケジュールで生活していた。

 

どんなタイムスケジュールや。いま書きながら「ヒィ」って血の気が引いたわ。

 

それでも当時は、「もっとわたしに力があれば」、と思っていたし、「もっとわたしに時間があれば」、と毎日のように思っていた。

 

だんだん身体はボロボロになっていく。

集中力も散漫になっていく。でも、仕事はめちゃくちゃ集中力を要する仕事だ。

だって、裁判の申し立てのタイミング一本で依頼人の人生が左右するようなものもあるのだ。事務員がやることは、先生の用意したその申し立て書類が完璧に揃っているかを確かめ、先生の指示する期日にしっかりと裁判所に送り届けることだ。

書類の混入にも気を配らなければならないし、

幸い、事故は起こしたことはないが、それでもヒヤッとする場面はあった。

 

そんなわけで、わたしは「集中力を高めるサプリメント」を海外から取り寄せて飲んだり(アメリカのハーバードの大学生なんかが進級試験の前に飲むらしい。あっちの進級試験はすごく厳しい)、ただでさえタイムスケジュールはカツカツなのに家でヨガまでやっていた。

「糖質で頭がぼーっとする」という話を聞けば糖質を抜き、いっときはナッツと血糖値の上がらない果物だけを食べて生活していたこともある。

 

という流れで、わたしは突発性難聴を発症して仕事を辞めた。

 

突発性難聴くらいですんでよかったな、と思う。

それでもわたしは当時悔しくてたまらなかった。

なんて情けない。世の中には、もっと頑張ってる人もいるのに。

 

そのときわたしは、いつも「どこかにいる完璧なわたし」を目指していた。

今のわたしはわたしじゃない。もっと優れていて、もっと体力もあって、もっとがんばれるわたしが、未来のどこかにいるはずだ、と思っていた。

 

そうして、「今のわたし」を否定し続けて、叱り飛ばしていく生活は、ほとんど自分への虐待と変わらなかったよな、と思う。

 

そんなわたしはいま、「ツムツムのやりすぎで腱鞘炎になったかもしれない」なんて生活を送っている。

あの時のわたしが見たら、泡を吹いて倒れるかもしれない。

意味のない言葉で画面をうめつくしたい

 

 

 

そういう欲求が、わたしにもある。

ふざけてて(いい意味で)、力が抜けていて、読んでも「なんの足しにもならない」、けれど、読んでいる方も力が抜けてきてほっとする。

 

そういう文章に憧れがある。

「正しさ」に負けなかった文章。わたしは、いつも正しさに負ける。

 

たまに自分でも、「もうちょっと気持ちを楽にたもって、ゆったりとした文章を書きたい」と思う。

けれど、いつの間にかちょっとした豆知識を書きたくなったり、最近読んだ本の中から「いいな」と思った言葉を引用したくなる。

 

読んだ人に、「ちょっとでも有益な情報を持って帰ってほしい」と言えば、なんだか聞こえはいいけれど、要するにこれはわたしの「コンプレックス」に根付いた行動じゃないか?とふと思うことがある。

 

わたしとは違う、どこか別の場所に「正解」がある。

わたしとは違う、どこか別の場所に「普通」がある。

 

そういう風に、強く思っている。

これはみんなそう思っているのか、わたしだけ特に強く抱いている感情なのか、人と話したことはないからよくわからない。

 

ただ、わたしはいつもどうしても「わたしは普通じゃない側」にいて、「『普通』の側に行くにはなにか対価を支払わなければならない」と思っているふしがある。

 

これはもしかすると、年始にnoteの方で書いた『世界は贈与でできている』の話に繋がる話なのかもしれない。

 

そして、そう思っているからこそ、余計に「正しさ」に固執したくなるんじゃないか、と思うことがある。

 

たとえば、「これは34歳が書く文章として『不正解』なんじゃないか」と思ったセンテンスを消す。

「これは、女として『間違っている』文章なんじゃないか」と思ったセンテンスを消す。

 

そういう自意識の『正解/不正解』フィルターを通して出てきたわたしの言葉は、本当に書きたかったことからかけ離れている。

 

もしくは、何かをやる前から、「こんなやり方でやってると思われたら、誰かに何か言われるしれない」と、行動の選択肢を初めから狭くして、「本当にやりたかった方法を回避」して、「やりたかったけど、こんなやり方でやりたかったわけじゃない」という不満しか抱かなかったり。

 

たとえば、本当は「クリームあんみつ」が食べたいけど、「あんみつ」だけで我慢しちゃうような、そういうこと。

 

そういうことを積み重ねていくうちに、「わたしが固執している『正しさ』なんて、こめかみをキリキリ締め上げるだけで、なんにもわたしの役に立ってないなぁ」と思うことがある。

 

「正しさ」にしがみつくのは、きっと自信のない自分が頼れる最後の砦みたいなものだと思っているからかもしれない。

 

だから、今年の抱負は「正しさに負けない」。

 

手始めに、巨大な白鳥のボートに乗って海を漂いたいです。

こういうことを書くと、早速わたしの中の警察がやってきて、「どうやってふくらますのか?」「超絶一般人のわたしが乗ってはしゃげるのか?」「羞恥心に打ちのめされて死なないか?」「帰ってきてどこに置くのか?」など、いろいろなことを言ってきますが、こういう話に耳を貸さない強い心を持ちたいと思います。

 

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「どうせわたしには恋人ができない」

 

年末に、二万円ぶんの本を買ってきた。

お財布に一万円札を二枚入れ、「ここから、好きな本をなんでも買うのだ」と思いながら、大きな書店に行き、そこで棚をひとつずつ回っていった。

 

すると、わたしの行動に不思議な変化があった。

立ち止まることはあっても表紙をざっと見て素通りするだけの棚や、そもそも近寄りもしない専門書(お店の建築とか)のコーナーも、じっくり、時間をかけて見ていたのだ。

 

野生動物の写真を収めた、めちゃくちゃでっかい写真集とか、ゴリラの研究にのめり込みすぎて、あまりにもゴリラに囲まれて生活していたら、久しぶりに自分の顔を鏡に映して見てみたときに、「あれ、ゴリラじゃない」と思ったゴリラ研究家の教授の本だとか(このゴリラの本は、結局買わなかったんだけどいつか買おうと思っている)。

 

「買う可能性がある」というだけで、行動へのコミットの度合いが深くなる、というのは、わたしにとって結構大きな気づきだった。

もしかすると、「本を読む」という行為そのものよりもずっと大切な気づきだったかも知れない。

 

本当の、本当は、「買う」「買わない」は関係なく、お財布にお金が入っていようと入っていなかろうと、自由に棚の間を歩き回っていいはずだ。

気になった本を手に取っていいはずだ。

 

それなのにわたしはこれまで、無意識のうちに、「買う可能性のない本」を避けて本を選んでいたのだろう。

 

ふだんはきっと、「どうせわたしには買えない」と心のどこかで思っているから、その可能性から心を閉ざしていた。

 

要は、「拗ね」だ。

 

ということは、「どうせわたしには恋人はできない」だとか、「どうせわたしには仕事はできない」だとか、そういうものが、可能性の幅を狭めていて、本来は出会えるはずだったものたちとの出会いを「なかったこと」にしている可能性もあるのかも知れないな、と思う。

 

好きな作家さんが、「その人にとって、「これは当たり前にできること」だと思っていることは、当然のようにできる。一方で、「これが欲しい」「これがしたい」と強く望むことは、その人にはできない。その人にとってそれは、「これはできない」と思っていることだから」というようなことをよく言っている。いろんな著書で、表現を変えて、でも結局はそういうニュアンスのこと。

 

わたしはそれを読んで、いつも「わかるような、わからないような話だな」と思っていた。

 

けど、その「お財布に2万円を入れて本屋さんの中を歩く」という経験をしたときに、その言葉の意味が迫ってくるような感じがした。

 

「拗ね」なんだ。結局、人を可能性や出会いから遠ざけるのは「拗ね」だ。

そして、「拗ね」から発せられた願望は、「できない」に根付いているから叶わないんだ。

 

わたしは昔、「恋人が欲しい」という女友達からの相談をよく受けていた。

そういう人たちに、「じゃあ、こういう出会いの場に行ってみれば」とか、「せっかくデートに誘われたなら、好みじゃなくても行ってみれば」とか、言ってみてもまず「やだ」というのだ。

 

どうして?と尋ねると、そりゃもう、怒涛のように、あふれ出すように、「自分にはできない」という理由を話し出す。

 

その子はついに、「〇〇だから恋人ができない」「いや、わたしも〇〇だけど彼氏いるよ。」というようなことまで言い始める。

 

わたしはその度にせっせと、「〇〇でも恋人はできるよ」「大丈夫だよ」と励ましていたけれど、「なんか、底に穴の空いた船から、水をバケツで汲み出してるみたいな、不毛な気分だな」と思っていた。

不毛なのは、わたしの方法が間違っていたからだ。

 

彼女たちが列挙する、「恋人ができない理由」は、その理由があるから「恋人ができない」と言っているわけではなく、「わたしには恋人ができない」という強固な思いが先にあって、それから理由を後付けしているだけなのだ。

 

なるほどな。つまり、その子の中で「どうせわたしには恋人ができない」という拗ねが解消されない限り、周りがいくら「大丈夫」と励ましてもあんまり意味はないんだ。

 

拗ねって面白い感情ですね。

 

ちなみに、そうやって厳選に厳選を重ねて買ってきた本たちはすべて「あたり」で面白く、「新年から幸先がいいなぁ」とほくほくしています。

あの人の好きな人

 

 

あんまり大声で言えないけれど、わたしは職場の人からおすすめされる本、というものがあんまり好きじゃない。

 

その人のふだんの読書傾向が自分に似ているとか、その人の芸術の好みが似ているとか、そういうことがわかっているといい。

あと、「こういうタイプの作家さんは苦手」ということをお互いに知っているといい。

 

問題は、「仕事をしている上ではすごく気が合うし、テンポも合うけれど、そういえばお互いの趣味とか、読書の傾向も知らない」という人と本の貸し借りをするときだ。

 

仕事をしていると、雑談の最中に、たまに「本が好き」という話になることがあった。

すると、親切な人は、「本好きなんだ、じゃあオススメの本を持ってくるから読んでみてよ」と言ってくれる。

本当に嬉しいし、ありがたいと思うんだけれど、わたしはそういう風にして勧められる本がなぜか「自分の嫌いな作家さんの本」であることばっかりなのだ。

 

わたしは、本を読んで「おもしろい」「おもしろくない」と思うことはあっても、「嫌い」と思うことは滅多にない。

 

「おもしろくない」は別に困らない。「わたしは選ぶことはないだろうな」と思う洋服を着ている人を見かけたときに似ている。わたしは選ばないけれど、それが好きな人もいるだろう、という時に感じる温度が、わたしにとっての「おもしろくない」、だ。

 

では、嫌いとは何か。

それはやっぱり、「近寄りたくない」という感情が入り込んでいる。
「嫌い」になる理由は様々だけど、わたしの場合は、「女を見下してる作家」が嫌いだ。これはべつに男性作家に限らなくて、女性作家にも女を見下している作家はいる。

このご時世、おおっぴらに「男尊女卑」を直接的に書く人はいないけど、「女を見下してなかったらこんな形容詞出てこないよな」というのを感知したらどうしても嫌いになる。

 

世界にはそれこそ膨大な量の本があり、その中にはわたしの読んだことのない作家の本の方がずっと多いはずだ。

それなのにどうして、「わたしが読んだことがある」「その上で好きじゃないと思った」作家の本を勧められてしまうのだろうと頭を抱えてしまう。

わたしが「嫌い」フォルダの中に分類している作家の本を「好意で」手渡されてしまうと、どうしたらいいのかわからなくなる。わたしの好きな作家を相手が好きだからといって、相手を嫌いになる、ということはない。

ただ、その借りてしまった本をどう扱えばいいのかわからなくてたじろぐだけだ。

 

みんなはそういう時に、どうしてるんだろう?
すごく珍しいシチュエーションってわけではないだろうし、誰か「こうすれば、人間関係に亀裂を生じさせずに本の貸し借りを断ることができますよ」という方法を知ってたら教えてください。

 

でもやっぱり、本の貸し借りって本来的にはすごく難しいと思うのだ。

いや、わからない。これはわたしが偏屈で好き嫌いが激しいから難しいだけで、世の中の人たちはもっと朗らかに、愉快に、本の貸し借りを楽しんでいるのかもしれない。

 

これが例えば、「今、〇〇って本が気になってるんだよね」という話をしたら、「あ、それ持ってるよ、貸そうか」という話なら全然違うんだけども。

 

ここまで、「本の貸し借りは難しい」という話をしておきながらなんだけど、でもわたしは「本の貸し借り」自体は好きだ。

 

学生の頃は、自分が本屋さんに行ったとしたら見逃していただろう本を、「これ、絶対あなた好きだと思うよ」と言われて貸してもらって、読後「自分でも買う!」と決意したことも多くあった。そういうときの、自分の世界が柔らかく自然な形でふくらんでいく感じがわたしはとても好きだった。パン生地が発酵していくような。

 

社会人になると、自分の能力は「どこか無理をして伸ばすもの」になっていく。

仕事として読まなければならない本を、「好きじゃないから」と言って読まないわけにもいかない。そういうとき、わたしは、なんだか洗濯バサミみたいなもので頭を挟まれて、無理やり上に向かって引っ張られているような、「きつさ」を感じていた。

 

じゃあ、もう学校のない世界で、「本の貸し借り」ができる関係性を構築できるのはどこかというと、やっぱりブログやSNSなんだろうな、と思う。

 

ただ、ネットって難しいと思うのが、自分の感じている親しみを、相手も感じているのかわからないところだ。

 

どうしてこの話をし始めたのかというと、今朝、好きな作家さんのブログを読んでいたら、ある画家さんの話が出てきた。その画家さんの絵をみてみると、「なんだかいまいちだな」と思い、「好きな人が好きなものを好きとは限らないよなぁ」と思ったのだ。

 

「本の貸し借りをできる」相手って、一体どういう人なんだろう。むずかしいな、と思う。

 

もしかしたら中学生の頃に毎日のように自分の蔵書を交換しあっていたあの子は、すごく貴重な存在だったのかもしれない。

『逃げ恥』と横浜とフォアグラ。

『逃げ恥』スペシャルの放映を待ちながらいま、この日記を書いている。

  

『逃げ恥』の連続ドラマが放映されている時、わたしはちょうど横浜に住んでいた。

ドラマを観ていて、ロケ地が気になることはそんなにないんだけれど、『逃げ恥』のロケは横浜市とタイアップ(?)していたらしく、主に横浜で行われていた。

 

わたしは横浜の関内というエリアの法律事務所に勤めていた。関内には、横浜スタジアムがあり、横浜地方裁判所があり、少し歩けば横浜中華街があり、みなとみらいにも歩こうと思えば歩いて行くことができる。

 

横浜地方裁判所の正面には、綺麗なレストランが二軒あり、そこはドラマやCMや映画の『ロケ地』として頻繁に使用されていた。

 

どれくらい頻繁かというと、一週間に一度はその通りでロケをみかけるほどで、最初は次々に現れる俳優さんや女優さん、モデルさんに興奮していたが、一ヶ月で「またやってる」と日常の風景に変化するレベルだった。

 

例えば、戸田恵梨香さんが出演していた映画『エイプリルフールズ』は、あるレストランを戸田恵梨香さんがジャックする話で、レストランがメインに物語が進むのだけど、そのロケに使用されていたのは、まさに横浜地裁の向かいにあるレストランだった。

 

わたしはそのレストランからものすごく近いビルの中に勤務していた。

法律事務所の事務員には「おつかい」という仕事があって、書類を裁判所に提出しに行ったり、法務局に書類を取りに行ったり、郵便局に切手を買いに行ったり、何かと外出する機会が多い。

 

その、横浜地方裁判所の向かいのレストランでロケをやっていると、道が塞がれていて、警備員のような人に「近寄らないで」と指示を出されることもある。

慣れてくると段々とこちらも、「近寄らないでも何も、こっちも仕事なんですけど」と反感を覚えるようにすらなる。

 

なにしろ、昼食に出かけると横で芸能人も昼食をとっている、ということが起こるくらいだから、そんなに芸能人に対する『ありがたみ』みたいなものがなくなっていく。

 

それでも、『逃げ恥』のドラマが横浜市タイアップということに気がついたときはテンションが上がった。

もしかしたら職場の近くでロケがあるかもしれない。うまくいけばガッキーや星野源さんが見られるかもしれない。

 

漫画原作は好きで読んでいて、初めはそんなにドラマには関心がなかったが、だんだんと星野源さんやガッキーが好きになって行く。

 

星野源がみなとみらいを猛ダッシュしとる。
いつも歩いている場所がテレビに映るだけでどんどんとくべつな気持ちになっていった。不思議なものだ。

 

しかし、いつまで経っても『逃げ恥』のロケに遭遇することはなかった。

仕事なので、いつもその道を見張っていられるわけでもないし(見張るほどのガッツもないし)、見逃す可能性は充分にある。けど、ドラマを観ていても「あそこだ!」と思うことはない。

 

職場でも「『逃げ恥』のロケ、やるかな」と話題になっていたが、「なかなかやらないね」と次第に話題にのぼることも減っていった。

 

けど、ある日の夜、残業で遅くなり、すっかり暗くなった頃に外に出ると、いつもとは比べものにならないくらいの野次馬が通りにあふれていた。

 

まさか、と思ってその野次馬に近寄ってみると、あのレストランでどうも撮影をやっているみたいだった。

 

警備もいつもより厳重で、「絶対に立ち止まらないでください」と頻繁に人が叫んでいる。

 

「『逃げ恥』かな」とどきどきしたが、社会人の理性の方が勝ち、立ち止まることもなくそのレストランの横を通り過ぎた。

 

そしたら最終回で、星野源さんがあのレストランでプロポーズをしていた。

「やっぱりあれは『逃げ恥』だったのか!!」とドラマを観ながら別の意味で興奮した。

 

『逃げ恥』を観ていると、あの芸能人と遭遇しまくったり、いいものばっかり食べさせてもらっていた横浜時代を思い出す。

 

先生方の気前が良くて、「こんなの、一生絶対食べられない」と思うような贅沢をたくさんさせてもらった。

当時は仕事量がえぐすぎて「いいからぐっすり眠りたい」としか思っていなかった時期だけど。思い返せば「別の人の人生の思い出みたいだな」と思うことさえある。

 

ヒールを履いて、今よりもずいぶんマシな格好をして、美しい街路を歩き、書類を作ったり書類を届けたりしながら、お昼ご飯にフォアグラを食べるような日々。

 

なんだったろうな、と思う。

 

そんなノスタルジーに浸りながら、『逃げ恥』のスペシャルドラマを待っている。

 

 

 

 

読書感想文とわたし。

誰かに読まれると思ったら、途端になにも書けなくなる。

文章指南書的な本をひらけば、そりゃもう、3000行くらいにわたって「読む人のことを考えて」と書いてある。

けれど、読む人って誰だ。

 

インターネットには、たくさんの人がいる。

アクセス数を見れば、だいたい自分の記事を何人くらいの人が読んでいるのかはわかる。

 

ちなみにこのブログは平均して一記事40アクセスで、noteは、編集部のオススメに載ったような記事を除けばおよそ1000アクセスだ。

 

とはいえそれはただの数字に過ぎない。

その中にはどんな人がいるのか、相互にフォローしあっている人は別にして、それ以外の人のことはわたしにはほとんどわからない。

仕事を引退し、縁側で日向ぼっこをしながら読んでいるおばあちゃんもいるかもしれないし、眠れない夜を過ごす男子高校生もいるかもしれない。

今から劇的な事件を起こそうと決意している人もいるかもしれないし、最悪の仕事帰りの電車の中で読んでいる人もいるのかもしれない。

 

そういう「可能性」について考え始めると、わたしの思考回路はしゅるしゅると音を立てながら止まる。

わたしがそういう人たちに話すべきことなんて、ひとつもないような気がしてくる。

 

みんな生きててめっちゃえらい。

本当に、えらい。

 

それくらいしか言えることはない。

人に分け与えることができるような、豊かな知識も、豊かな経験もない、そんな気持ちになる。

 

先日、noteでキナリ読書フェスという催しが開催された。

イベントの告知がされた時は「なんて楽しそうな催しなんだ」と思ったものの、記憶がところてん式のわたしは、イベントの開催当日までイベントのことをしっかり忘れていた。

 

キナリ読書フェスとは、「いっせーの」でみんなで課題図書を読み始め、感想文を書こうという2日間に渡るイベントだった。

 

イベント1日目に告知記事を読んで思い出したわたしが、手に入れられる課題図書は『銀河鉄道の夜』しかなかった。たまたま郊外に出かけてしまった後で、大型書店が近くになかったのだ。

 

そんなわけで、半ば消去法的に『銀河鉄道の夜』を読み始めた。

 

これが、最高に楽しかった。「作者はなにを思ってこのセンテンスを書いたのだろう」とか、「この舞台装置が出てくるのって、どういう意味なんだろう」とか、本を読みながらゴリゴリとメモを取り、考えたことをメモしていった。

 

深夜まで過集中のまま突っ走り、つくりかけ

の秘密基地を校庭の裏に置いて帰ってきた子どもみたいに楽しくて眠れず、そして朝には感想文に書き起こし始めた。

 

書き終えると、本文からの引用があるとはいえ、7000字を超える凄まじい読書感想文が出来上がっていた。

 

「こりゃ、あまりにも長すぎるのではないか」と思わなくもなかったが、「楽しかった。こんなに読書に熱中したのは本当に久しぶりだった」という気持ちの方が勝り、そのまま投稿した。

 

わたしは、書く時は「書いている自分が楽しければいい」と思っている。そう思う自分を誇らしいとは思ってない。どちらかというと、「読む人のことを第一優先に考えて」書ける人の方がずっと素晴らしいし、そうなりたいと思っている。

 

書くだけで満足しているなら、ネットに放流しなければいいじゃないか、と思うこともある。

それに、正直なところ、わたしは自分の書いたものに感想を言われるのが好きじゃない。それが褒め言葉であっても、皮肉であっても、同じくらい好きじゃない。

 

こういう態度って、本当にたくさんの人を傷つけたり、不当に扱われているような気分にさせるんじゃないか、と思うことがある。

 

一時期、noteで結構感想をくれていた人も、わたしがあまりにもそれにちゃんと反応しないからかもう感想を送ってくることもなくなった。

申し訳ないことをしたなぁという気持ちと、それはそれでホッとしている気持ちがある。

 

そしてそういう時に、「尖っている人って、アドバイスをもらう機会がなくなるから損ですよ」という記事を読んで凹んだりもする。

 

その言葉に反応するということはある程度自分のことを「尖りすぎ」と思っているということなんだろうけれど、だからといって、知らない人にいきなり話しかけられて心情を吐露されたり、あんまり似ていない境遇を重ね合わされて「わたしにもこういうことがありました」なんて話をされても、困っちゃうのである。

 

つまり、「自分の聞きたいことしか聞きたくない」という究極のわがままボディというか、わがままな自己像が浮かび上がってくるように見えるんだけど、「素晴らしいですね」なんて言われた日には、それはそれで「黙って書くので、黙って読んでください」と思っちゃうあたり、もうわたしの自我は救いようがない。たぶん、どこかの秘境で一度壮絶な孤独に耐えてみた方がいいのだと思う。

 

そんなこんなで書いた読書感想文が佳作(入賞はできなかった)だった。

入賞できなかった悔しさみたいなものはない。こういうと強がってるみたいだけど、マジでない。だって他の方の感想文を読んだ時に、「わたしだけ違う祭り会場に紛れ込んでるくらい、書いてる文章の種類が違うぞ」と思っていたからだ。

わたしの感想文には「わたし」がいないな、と思った。

 

そりゃ、わたしが読んで書いた感想文だからわたしがいないわけではないんだけど、みんな、「本とわたし」がちゃんと対話しているな、と思った。そのことが素晴らしいと思った。

 

わたしは本を、「観る対象」「分析する対象」として扱っている。

 

そのことが、胸にずしっと重たかった。

そして結果発表で、主催の岸田さんが「私は筆者として、分析されるような読み方はあんまりされたくない」というようなことを書かれており、「そりゃそうだろう」と思った。

 

わたしは、ずっと観察して生きてきた人間なのだ。自分の周りで起こることは、すべて観察の対象だった。自分がそこに突っ込んでいて、「参加している」という手応えをかんじたことがほとんどない。

 

わたしがそうなったのにはもちろんそれなりの理由があるし、その原因についての分析はそりゃもう、本が数十ページ書けるくらいだ。数十ページの本って大したことないな。

 

つまりわたしは自分のことでさえ観察の対象として扱っていて、たまに「わたしってマジで死んでるのかな」と思うことがある。

 

「解釈」と「実行」について最近よく考える。

石橋を叩いて割るタイプはこの「解釈」だけが先行していることが多い。

 

そして、人生は「解釈」を繰り返す人間よりも「実行」を繰り返す人間の方が強い。圧倒的に強い。

 

そういうわけで、2021年は「実行」の年にしたいなぁと思っている。

あまりにも論理が飛躍しすぎていて、何の話をしているのか自分でもわからなくなってきたので、今日はここら辺で終わります。