豚骨醤油味噌ラーメン

いろいろ書きます。

脳みそをふりしぼってもなにも出ない日の日記

 

 

今日は朝からnoteをひとつ更新した。

もともとははてなブログに投稿するつもりだった文章だが、書いているうちに、「これはnoteでやった方がいいな」と思ってnoteの方に投稿した。

 

誰も興味ないだろうけれど、私は今年に入って、つまり、先月の頭から、文章を書くときはぜんぶWordで行なっている。

私の大好きな作家さん、嶽本野ばらちゃんが『全ての作家志望者に向けた小説講座連載』という触れ込みで連載している、「NOVELS WARS」に影響を受けてそうするようになった。

(「NOVELS WARS」が気になる方はこちらのリンクから。めちゃくちゃ面白いし、私の日記より断然ためになるよ)

 

なんでも、「作家たるもの、文字数感覚を体感でつかむのはとても大切なこと。作家は『2000字で』と言われたら、2000字に見合うテーマを選ぶことができ、それに過不足のない文章を書けるものなのです」と書いてあり、「その感覚をつかむために、文章作成ソフトは原稿用紙の設定と同じにして、それを固定値にして、『原稿用紙5枚』がどれくらいの量なのかを毎回確かめなければならない」というようなことが書いてあったのだ。なお、これは私の要約であり、正確な引用ではない。でも、大体こういうニュアンスのことだ。

 

連載を読んだその日にはWordの設定をいじり、画面のどの辺まで書けば何文字くらいになるのかを体感でつかむ訓練を始めることにした。

 

今もそれは続いている。

 

今、私はnoteとはてなブログに書いているんだけど、そのどちらの場合にもWordで書いたものをコピペするやり方で書いている。

 

「デビュー作家でもない、ただエッセイをネットに書き散らしているだけのお前の文章の書き方なんて、めちゃくちゃどうでもいい」という声が聞こえてきそうだ。

わかる。私も私を客観的にみて、「どーでもいいなー」と思いながら書いている。

 

じゃあ、なんでこれを書いているかというと、私はかなり、このはてなブログのことを気に入っているからだ。

 

もっというと、火曜日と木曜日になると、こつこつと訪れてくれる人が増えて、「あぁ、覚えていてくれてるんだな」とじんわり心が温まり、ありがたいような気持ちになる。

 

今日はマジで、このブログを開始して以来と言っていいくらい、ネタがなにも思いつかず、「ならいっそ書かないほうがいいのでは」と思ったのだけど、更新日の木曜日である今日に、ポツポツとこのブログにアクセスしてくれている人のログを見て「きゅん」と来てしまい、「面白いことは書けないかもしれないけど、書こう」と思って書き始めた。

 

いつも見てくださってありがとうございます。めちゃくちゃはげみになっています。

 

今日はいつもより半分くらいの長さしかないけど、また来週しっかりと書きます。

げっぷが止まらない

 

 

さすがにこんな書き出しで書くのは……と思ったので、別の書き出しを探していたんだけど、なにも思いつかないから書くと、昨日の夕方ころからげっぷが止まらない。

 

学生時代に、よく授業中に机に突っ伏して寝ていた人たちにはきっと伝わると思うんだけど、そうやって寝ると起きたとき胸の中に空気がパンパンに詰まったような感じがして、呼吸が苦しくなってよくげっぷがでるようになる。

 

それとそっくりな症状が、昨日の夕方ころから続いているのだ。

 

放っておけば勝手に治るでしょうとタカをくくっていたら、翌日の朝である今なおもその症状が続いている。

 

これ、結構苦しいんだけど、「げっぷがつづく」という症状って、いまいち悲壮感がない。「タンスに足の小指をぶつけた」と言えば「大丈夫?」とまるで自分が机に小指をぶつけたかのように心配してくれる夫も、「げっぷが続くってさ、申し訳ないけどあんまり深刻みがないよね」と半笑いでコメントしてくる。

 

なんだと、とムキになりたいところだが、私もどちらかと言えば夫と同意見なのだ。確かに胸に空気ポンプで大量の空気を詰め込まれたみたいな感覚は苦しいし、その空気を出すために「ゲプ」と汚い音を出すのは情けない。

 

けどやっぱり、夫が「げっぷげっぷ」と音を立てていたら、ちょっと笑っちゃうと思うんだ。

これが「頭の割れるような頭痛でのたうちまわっている」とか「嘔吐が止まらない」ならすごく心配になると思うんだけど、「げっぷが出続ける」には、あまり感情移入することができない。

 

こういうのは、よくない。

ばかにしている症状が、何か重大な病気の初期症状だという可能性だってある。

 

気持ちをぎゅっと引き締めて、Googleで検索をかけてみる。

 

「げっぷ 止まらない」

 

症状も間抜けなら、検索ワードも間抜けだ。いけない、また悪い癖が出ている。細部を怠ってはいけない。もう一度心の中のエアふんどしを締めなおす。

 

すると、「呑気症」という言葉がヒットした。のんき症だと。症状も間抜けなら、症状の名前も間抜けじゃないか。どういうことなんだ。

…とオムロンヘルスケアのサイトを読んでいると、どうもこの場合は「のんき」ではなく「どんき」と読むらしい。

どちらにせよ「呑気」といえば、快晴のお花畑で膝を抱えて座り、ぼうっと空を見上げている人の姿しか思い浮かばない。

 

文字通り、「空気を飲み込む」ことで引き起こされる症状らしく、こういう人がなりやすい症状らしい。

 

・仕事や人間関係でストレスが多い人

・細かいことを気にして不安になりやすい人

・無意識に噛みしめるクセのある人

・歯の噛み合わせがよくない人

・早食いの人

(引用元:https://www.healthcare.omron.co.jp/resource/column/life/135.html

 

正直、心当たりしかない。

でも、病気や不快な症状の原因って、大体いつも「ストレス」って書いてある気がして、「またお前か」感が否めない。

 

噛み締めも、早食いも心当たりがあるが、その症状の原因にもストレスって書いてあった気がする。

 

もはや「それは何かを言ってるようでなにも言っていないのでは」という気しかしない。

 

「ストレス」を気にしすぎると「それもまたストレスになります」と書いてあったりするし、「ストレス」について考え始めると、それがストレスにしかならない。

そんなループに落とし込むような原因を書いて「これで原因がわかりましたね」と言わんばかりのテンションで回答を手渡されると、困惑するほかない。

ていうか思考停止してんじゃねーの、と若干の怒りを感じることさえある。

医学の発展に貢献したこともなければ、研究職についているわけでもないくせに、自分のことを棚に上げて非難したくなる。まったく、これだから人間ってやつは。

 

そんなわけで、私は今げっぷと戦っているわけだけど、今日の日記はこれまで史上最大に誰の役にも立たないのでは、という気がしてならない。

 

どうですか、みなさん。ストレス、解消できてますか。

巷に溢れている「これでストレス解消」って書いてある方法で、本当にストレスが解消されて、すっきりと晴れわたる気分になったことってありますか。

 

むしろ、「あれもこれも」と提示される「ストレス解消法」に、「この中からさらに自分に合った方法を見つけるのがストレスだわ」って思うこと、ありませんか。

私はそう思います。

げっぷ。

「あの人は変わってしまった」について

 

 

 

「あの人は変わってしまった」というセリフは、だいたいにして悪い印象の言葉として使われているように思う。

 

これって、よく考えたら不思議だ。

だってなんだか、「変わることそのもの」が悪いことのように言っているセリフだからだ。

 

 

たとえば、今まで商売っ気のまったくなかったあの子が、ネズミ講を始めた。

変わってしまった。

 

今までどちからというとナチュラルで天然素材なワンピースを着ていたあの子が、バリバリの高級なスーツを身につけ、真っ黒なピンヒールを履いて街をコツコツ音を立てて歩くようになった。

変わってしまった。

 

今ままで一人ぼっちで教室の片隅にいたあの子に、友達ができて、今まででは考えられないような明るい笑顔で笑うようになった。

変わってしまった。

 

逆に、その子が道を歩けば、四方八方からわらわらと人が集まってきて、いつも集団の中心にいたあの人が、今は人目を避けるように、こっそりと一人で生活しているようだ。

変わってしまった。

 

そういうのを、まるで悪いことのようにいう人って結構いるんだな、と、これまで生きてきて結構びっくりした。

 

なんで?別に変わってよくない?

 

変化って、そもそもにして、必ずしもその人が望んだから起こることでもないような気がする。

 

ネズミ講を始めたあの子は、生活に困窮して、藁にもすがる思いで始めたのかもしれない。本当は心を開ける友達が欲しかったけど、ネズミ講セミナーで生まれて初めてうまく心を開くことができたのかもしれない。

 

ナチュラルで天然素材なワンピースをきていたあの子は、それで軽んじられて扱われるような出来事に遭遇して、「ちょっとでも強そうな服装」をしないと、怖くて道を歩けなくなったのかもしれない。

考えたら、可能性は無限大にある。

 

「あの人は、変わってしまった。残念だ」と言える人ってもしかすると、これまでの心象風景が歪み、「今までの私ではいられない」と思うような決定的な出来事には遭遇したことがないんだろうか?それとも、自分では自分の変化に気がつけていないんだろうか?

そこのあたりのところが聞いてみたい。

 

「いつも同じパターンを繰り返す人」が、安心するのはわかる。

 

たとえばアニメ、小説。

 

彼らは画面の中で、あるいは紙面の中で、ひらけば毎回まったく同じ動きをして、同じセリフを話し、同じタイミングで泣く。

 

「予測できること」は安心するのだ。怖くない。

変化が怖い人(自分自身の変化に限らず、周りの変化をも含めて)は、「予測できないこと」が多分怖いんだろうな、と思う。

 

他者の介入によって、ルーチンが壊れる。

 

たとえば、朝、駅のホームの売店で新聞を買うと決めていたのに、売店が閉店してしまった。

 

それによって、ショックを受ける度合いは、人によって違うだろう。

 

「ふーん、なら駅に入る前のコンビニで買うか」とすぐに気持ちを切り替えることができる人もいれば、「あの駅の売店で、平日に新聞を買い続けて2年、毎日、毎日そうしてきたのに。あの新聞はあの売店で買わなければいけなかったのに。ショックだ」と立ち直れない人もいるだろう。

そこから発展して、「どうして売店が潰れるんだよ」と怒りを覚える人もいるだろう。

売店だって、経営が立ち行かなくなったから潰れただけかもしれないのに。

 

とはいえ、私も別に環境が大きく変化することが好きなタイプではない。地元に帰ったとき、子どもの頃に通っていた雑貨屋さんが潰れてしまったのを見つけたら、一年くらいたまに思い出しては、「あぁ、あそこ、潰れちゃったのか」と凹んでいる。

 

確かに変わっていくことは悲しい。

 

けど、人も街も、いつまでも同じというわけにはいかない。

 

この話で何が言いたいかというと、「変わっちゃったね」と言われると、私はけっこう傷つく。

それは多分、私ができなかったことをできるようになるように、意識的に変えようとして変えることに成功した(成長した)部分を、喜んで受け入れてもらえなかった悲しさと、「私だって別に変わりたくて変わったわけじゃない」という部分に対する、共感がないことへの悲しさだろうな、と思う。

 

傷つくっていうか、「これから乗ろうとしている新しい波」に乗ることが、変わろうとしている本人だって怖い、ということもあるだろう。そこに、「変わっちゃったらやだよ」という人が現れると、その、奮い立たせた勇気がしゅるしゅると音を立ててしぼんでいくような感じがするのだと思う。

 

まぁ、なんにせよ、結局自分の人生は自分のものだから、他の人が何を言おうと、自分の決めた道を歩くしかない、って結論になるんですけどね。

『疲れ』とは。

イルセ・サン著「鈍感な世界に生きる敏感な人たち」を読んでいたら、興味深い一節が出てきた。

  

まず、疲れないようにするために、できることがあります。憂鬱な気分になった人はベッドに入り、たくさん睡眠をとろうとします。でもここで知るべきなのは、疲れというのは悲しみが形を変えたものであるということです。眠っても、悲しいことはなくなりません。気分が重いとき、本当に必要なのは、睡眠よりも成功体験です。

 

(イルセ・サン. 鈍感な世界に生きる 敏感な人たち (Japanese Edition) (Kindle の位置No.822-826). Kindle 版.)

 

「疲れは悲しみが形を変えたもの」とさらっと書いてあるけれど、私はけっこう衝撃を受けた。

 

言われてみれば、「SNS疲れ」もそういうことかもしれないな、と思う。

「こうなってほしい」が「そうならない」から、「悲しい」。なるほど、それが「疲れ」というかたちで出てきているのか。

 

そんなときに本当に必要なのは睡眠ではなく「成功体験」だとイルセ・サンは言う。

 

成功体験、というと「それこそ積み上げるのが難しくて余計に疲れてしまいそうだけど」と思ったけれど、やるのは「郵便受けに、郵便物が届いていないか確認しに行く」とか、そういう日常的なことでもいいらしい。

 

自分が、「これをしよう」とまず決めて、それを「やってみて」「できた」と思えることが大切なのだそうだ。

 

30すぎると、疲れていない日の方が珍しいような感じがして、「これくらいのことで疲労感が取れるなら、ひとつやってみようかな」と思った。

 

「疲れ」が「悲しみが形を変えたもの」なら、疲れやすくなるのもなんとなくわかる気がする。

 

歳をとればとるほど、ままならないことは増えていく。そして若ければ若いほど、ままならないことが許せない。自分にまだ「希望」を持っているからこそ、ままならないことを受け入れるのが難しいんだと思う。自分にはまだやれる、と思っちゃう。

30代って、そんな「ちょっと成熟しだした」頃と、「若さ」とがちょうどぶつかり合うところのような気がしている。反対側から押し寄せた波が、ちょうどぶつかり合う潮目のような。

「今までの自分とは何かが違う」んだけど、その「新しい自分」をどういう風に扱えばいいのかわからない感じ。

 

 

とにかく、そんなわけで「成功体験によって疲れは払拭されるのか?」を試す事にしてみた。

 

そしたら、プラセボなのかもしれないが、これが、実に効く。

ほんとうに、些細な事でかまわない。

 

昼過ぎ頃に、朝の掃除、洗濯、リモートワーク中の夫の昼食作りを終えて、「そろそろ文章でも書こうかな」と思うんだけど、ちょっとだるい。

 

そんなときに、「郵便受けを見に行ってみよう」と決める。

 

室内用のもこもこの靴下から、寒い部屋で冷えてしまった外出用の靴下に履き替えて、「冷たい」と思う。

玄関で、内側がもこもこのバーガンディ色のクロックスをつっかけて、家のドアを開ける。

新鮮な、冷たい空気が音を立てて部屋の中に吸い込まれていく。

階段を降りて、マンションの郵便受けに向かう。部屋の中にいた時は気がつかなかったけれど、こんなにいい天気だったんだなぁ。空は青く、もう冬の空じゃない、もうすぐ春だ。

ステンレス製の、冷えた郵便受けを開けるけれど、中には宅配ピザのチラシだけが入っている。

それを手に取り、郵便受けを空にして再び自分の部屋に戻る。

 

それだけで、確かにさっきまで胸の中を薄く覆っていた牛乳のまくみたいなものが剥がれ、清々しい気持ちになる。

 

たしかに、この世界は、自分の力だけではままならないことばかりだ。

 

私が書いたこのブログも、読んでくれた人みんなに楽しんでほしいけれど、楽しいと思ってくれる人は訪れた人のうちの、ほんのすこしだろう。

私はいつもチョココロネを食べたいけれど、近くのコンビニがいつもチョココロネを入荷しているとも限らないし、誰か他のチョココロネ好きが買い占めて、私の手には渡らないかもしれない。

 

だからこそ、確かに、「私が『できる』と期待したことを、ちゃんとやり遂げられる」という手応えを、たまには感じないと人間は苦しくなっていくのかもしれない。

 

なんてわがままで子どもみたいな生き物なんだろう、と思うけれど、郵便受けに郵便物が届いていないか確認する、という、ちょっとしたことで軽い疲れが取れてしまうのはちょっと可愛いな、とも思う。

 

 

日々流れてくるWebマンガに思ってること。

Twitterを開くと、日々さまざまなWebマンガがタイムラインに流れてくる。

商業誌のプロモーションで無料公開されているマンガであったり、描いてそのままアップロードされたマンガであったり、企業からも個人からも大量のマンガが日々公開されている。

 

マンガが流れてくると、つい読みふけってしまう。

その中には、ほのぼのとした新聞連載の四コママンガみたいなものであったり、むかしだと専門書を読んでもよくわからなかったことがマンガ形式でわかりやすく解説しているものもあったり、おそらくインターネットが普及する以前だと出版されることもなく、広く知られることもなかったんだろうな、と思うような壮絶な体験談なども含まれている。

 

ちなみに、ここからはわたしの経験に基づいたただの推測を書き連ねるコーナーです。

 

わたしはもともと他者の感情に巻き込まれやすいタイプで、激しい感情表現があるものを読むと精神的にまいってしまい、その回復に時間がかかるので、できるだけそういう作品を読まないように気をつけている。

 

どうやって避けるのかというと、「いろいろな人の視線を通過せずに発表されている作品」を避けている。つまり、個人が直接的にアップロードしたマンガはできるだけ避けている。

 

感情は生ものだし、強烈な光のようなものだと思っている。

確かに自分が表現するときは、「できるだけ、この生の感情をフレッシュに、リアルに伝えたい」と思うものだ。しかし、読み手として回った時は、あまりにも鮮烈な感情表現があると、目の前で強烈なライトをちかちかとされたみたいに目が眩む。

 

そう、まさに「目がくらむ」に近いのだ。目が眩んでいると、本当に見るべきものが見えない。

 

例えば、子どもが大声で泣き叫んでいる。その声や、こぼれ落ちる涙や、ゆがんだ表情から、子どもが「なんらかの危機に瀕している」あるいは「強烈な不快感を感じている」らしいことはわかるけど、実際のところ、彼(もしくは彼女)がいったいどうして泣いているのかは、泣いている姿のみで推測するのは難しい。

 

それに似ている。

あなたが悲しいのはわかる。苦しんでいるのもわかる。ただ、その泣き声が大きすぎて、その涙の下にある、「本当に訴えたいこと」がわからない。

 

結局のところ、「間に編集者が入る」というのは、「どうして泣いているの?」を何回も繰り返し、わかりにくいところを冷静に書き換え、エピソードを置き直し、「感情と事実の距離を適切に保つ」ということをやっているんだろうな、と思う。

だからわたしは「作品と、作者の間に誰かが入っている」作品を読むほうが好きだ。

あまりにも直接的に感情表現がなされている作品を読んで、「わかろう」とするのはわたしにはどうやら向いていないみたいだ。

 

とはいえ、世の中には「自分を、他人くらいの気持ちで客観的かつ冷静に具に観察することができる」という人もいる。

そういう人の表現は息を飲むくらいすごくて、わたしはそういう人の描いたマンガなら、いくらでも読むことができる。

 

だから、本当は「(実際の第三者が)編集が入っている」というのもあんまり妥当な判断基準じゃない。自分で自分の有能な編集者になれる人もいるみたいだし。

 

それに、編集が入っていてもやっぱり感情表現のみが強烈に前に出ている作品もある。

 

ちなみに、これは「こういう作品が優れている、優れていない」という話ではない。

ただのわたしの好みの問題だ。

 

なんにせよ、わたしが不安なのは、「わたしが好きなタイプのマンガ」は「その人の中で、何年もの時を経てやっと出てきた表現なんだろうな」と思われるタイプのマンガなのだ。

ちょうど、宮沢賢治の『やまなし』みたいに。果物が川底に落ち、時の流れと、水の流れに揉まれ、やがて腐り、さらに熟成していい香りのする酒になるみたいな。

その甘露の酒のようなマンガがわたしは好きで、それは、きっと完成するためにはすごくたくさん時間がかかるのだろうと思う。

 

確かに毎日マンガがWebから流れてくるのはありがたい。ありがたいけれど、おそらくわたしの好きなタイプのマンガは、Webでガンガンと消費と代謝を激しく繰り返す流れの中では、消えてしまうタイプのマンガなのかもしれない、と不安になることがある。

 

消えてしまったらとても悲しい。だから、見つけたら大切にしたい。でも見つけるにはwebが必要なのかもしれない。

 

むずかしいなぁ。

 

私たちは大食い競争をしているわけでも、早食い競争をしているわけでもない。

 

 

これを書いているのは日曜日の夜だ。外は雨が降っている。

「このブログは、最近朝に書いている」と言った次の記事で早速そのルールをやぶるのもなんだかなぁと思わなくもないが、まぁいいか。

 

雨は、土曜日からほとんど休みなく降っている。

 

土曜日の朝、「今日は雨かぁ。まぁ毎日晴れというわけにもいかないし」と雨を受け入れるつもりでいたのに、二日目にはすっかり湿気に参ってしまい、「いつまでこの雨が続くんだろうな」と思いながら窓の外をながめている。

 

ずいぶん勝手なものだけど。

 

雨が降ると、わたしの動きはとても緩慢になる。

皿を洗う決意をするのに1時間くらいかかる。「なんだかぼーっとする」という症状が、朝からひとくちも水を飲んでいないからだということに昼過ぎに気がつく。

 

そうなるともう、モードを「温存」に切り替えるしかない。

 

やりたいことは机の上に山積みになっている。読みかけの本、書きかけの記事、切り抜いたまま、手帳に貼り付けられていない写真。

 

けれど、今日は「やるべきこと」さえできたら完璧だ。ゴミ箱を空にして、シーツを新しいものに変えて、簡素な昼食と夕食をつくって。

 

あとはじっとしていよう。

 

そう思うんだけど、その、「じっとする」のがむずかしい。

頭の中でなりひびく、「時間を無駄にしている」という言葉から逃れるためなら、こうして文字を書き綴っていた方が、頭の中にはちっとも入ってこないけれど、まだ本のページをめくっていた方がましだ、と思う。

 

そんなときに、最近は、この記事の表題に書いた、「私たちは大食い競争をしているわけでも、早食い競争をしているわけでもない」という言葉を思い出すようにしている。

 

実際、そうなのだ。私たちは大食い競争をしているわけでも、早食い競争をしているわけでもない。

 

それなのに、いつの間にか詰め込めるだけ情報を口の中に詰め込み、胃をぱんぱんにして、「もう食べられない」とあえぎ、「まだ食べろ」と自分を追い詰めていることがある。

 

そんな、「ひとりミニコント」をしている姿を想像すると、ちょっと面白くて、気持ちが緩む。

 

最近、それでもすっかりと「闘志」みたいなものがなくなってきた。

怠惰な自分に打ち勝つのだ、自分を啓発するのだ、という気持ちが薄まってきている。

 

不思議なもので、「自分を高めなければ」と思っているときには、「もっと己を高めろ」というツイートや記事がうるさくて、読むと頭の上の方からメガホンで怒鳴られているような脅威を感じていた。

 

けれど、「なんか、まぁ、全部どうでもいいか」と肩の力が抜けていると(このニュアンスがむずかしいんだけど、「どうでもいい」というのは、「投げやりな態度」のことではなく、「出力された結果がどのようなものであれ、そのまんま受け止める」という意味だ)、そういうツイートや記事が、遠くの小学校で行われている運動会のアナウンスがぼんやりと聞こえてくるみたいな、「微笑ましい」ような音として聞こえるようになってきた。

 

これが「善き変化」なのか、「悪しき変化」なのかさえわからないけれど、それすらも「よくても悪くてもどっちでもいいなぁ」という感じ。

 

ただ、いまnoteで一本書きかけている記事は、久しぶりに「ウケを狙うぞ」と身構えているせいか、書けば書くほど「アップロードするのが怖いな」という気持ちになってきている。

 

こうして人は新しい(と言いつつも、もしかするといつも自分の中にいて、発見されることを待っていた)自己と出会いながら生きていくのかもしれない。

 

昨日、そういえば麒麟の夢を見た。

麒麟の夢」は吉夢らしいんだけど、麒麟は「キリンビールのアカウントにフォローされる」というかたちで出てきた。夢なので実際にはキリンビールにはフォローされていない。

 

起きて、「麒麟の夢だけども」という気持ちになった。

麒麟の夢だけども。

 

その色や香りを損なうことがないように

朝だ。

 

このブログは、最近朝起きてからできるだけすぐに、書くようにしている。

あんまり頭が働いてない状態のときになにかを書くと、物事をやわらかくみることができるような気がする。気のせいかもしれない。ぼーっと、なにも考えていないときの方が、案外と野生の直感のきらめきが冴えているという可能性もあるかもしれない。

 

そういえばこのブログを書きはじめて、明日でちょうどひと月だ。

はてなブログは、「どこのサイトのリンクから来てくれたのか」をみることができる。更新情報はTwitterでしか流しておらず、noteの方には「こういうブログを書いてるよ」と一度告知しただけなのにそこから来てくれる人が多くてうれしい。

ありがとうございます。

 

最近、『中田敦彦YouTube大学』にはまっている。

もともと、部屋に掃除機をかけたり、食器を洗っているとき、ヘッドホンをつけてYouTubeをラジオ的に聴くのが好きだった。

 

家事をしながら見る(というか聴く)なら、出来るだけ動画の尺が長く、画面を見なくても進行がわかる動画がいい。

尺が短いと、皿を洗っている最中に、手が洗剤でもこもこの状態で動画が終わってしまうことがあったり、音声だけで展開がわからない動画だと、「あー!まさかこいつが!」とか、「こんなに大きなオオサンショウウオが」とか、そういう声につい反応してリビングのテーブルの上に動画を見に行ってしまうので家事が進まない。

 

その点、『中田敦彦YouTube大学』は完璧だということがわかった。

まず、尺が長い。一本の動画が一時間を超えることもある。

画面を見なくても進行がわかる。

 

完璧だ。

 

そんな風にして、「勉強したい」とか「もっと教養を身に付けたい」とか、きっとあっちゃんが「こういう人にみてもらいたい」とターゲットにしている像とはぜんぜん違う目的であっちゃんのYouTubeを見ちゃってると思うんだけど、あっちゃんの「しゃべり」ってすごい。聴いていてちっとも飽きない。

そしてこれも大切なことだと思うんだけど、「誰かを傷つけるような表現」が全然出てこない。だからストレスがたまらない。

たまに芸人さんのラジオを聴いていると、「いじり」として話される話が「全然笑えない」みたいなことがあり、そういうのを長時間聴いていると疲れちゃうのだ。

 

いろんな動画をラジオ的に聞いてきて、私には今のところあっちゃんの動画がいちばんしっくりくるみたいだ。

 

私は主に、「話題の本」をあっちゃんが解説する動画を見ている(聞いている)。

それが、かなり楽しい。

 

まず、「話題の本」の選び方が絶妙なのだ。あっちゃんの解説する本は基本的に「ビジネス書」に分類される本が多い。

けど、ビジネス書ってそれこそ毎日のように、あらゆる本が新刊として本屋さんに並んでいる。

経済動向とか、新しい働き方とか、情報を知っておいたほうがいいんだろうな…と思うような分野だけど、毎月のようにたくさんの本を買うことはできないし、そもそも興味のある分野ではないから、「かいつまんだ内容」を教えてもらえるのはありがたい。

 

そしてそこから「この本はしっかり読みたいな」と思ったら、その本を読む、というサイクルがちょうどいい。動画でなんとなく概要は掴んでいるから、本もすんなり読める。

 

昨日は、『禅』の授業を聞いていた。

『禅』といえば、スティーブ・ジョブズがメンタルコントロールの方法を求めて出会った鈴木俊隆老師だ。

そこからシリコンバレーでは禅の一部を生活の中に取り入れた『マインドフルネス』が爆発的に流行した。

 

その動画をきっかけに、「そういえば昔、鈴木老師の本を読んでみたいと思ってたな」ということを思い出した。

あっちゃんの動画で紹介されている本とは別の本だ。

 

Kindleにアクセスしてみたら、『禅マインド ビギナーズ・マインド』の2巻がKindle unlimitedの中にあった。1巻から読みたかったんだけど、私の端末ではなぜかエラーが出てどうしてもアクセスできなかったので、仕方なく2から読むことにした。

 

この『ビギナーズ・マインド』とは、「初心者の心」を英訳したものだけど、『ビギナーズ・マインド』と訳されたらなんだかぐっと仏教感がなくなるというか、興がそがれるというか、「そうなんだけど、もっとなかったの?」と思ってしまう(余計なお世話だ)。

 

と、いきなり文句を言ってみたが、やっぱり仏教はすごい。「人生を生き抜くエッセンス」が詰まっている。

そしてこの本は、他の禅について書いた本と一線を画している、と私は思う。

禅に興味を持って、以前何冊か興味を持って読んだことがあるのだけど、これほどわかりやすくて、「言葉で無理やり理解させるのではなく、空気ごと伝える」ということを徹底している本は初めて読んだ。

 

 

仏教が他の多くの宗教と大きく異なるところは、「苦しみから解放される」ことをやるところだ。仏教は、さらなる幸せや、豊かさを目指す宗教ではない。

今、心をぎゅっと圧迫している心配事や、むかし誰かを傷つけてしまった苦い思い出や、対人関係のストレスや、そういう「私たちの動きを不自由にして、縛りつけるものからの解放」を目指している。

特に『禅』は、『自分自身と向き合うこと』を徹底的にやる。

 

しかし、ここでわたしがあんまりこの本について書いてしまうと、この本の大切なエッセンスを損ないそうな気がするので、「おすすめだからもしよかったら読んでみて」としかいえないのだけど、昨日「いいな」と思った文章を引用して終わりたいと思う。

 

蜂が蜜を集めるときに、花を味わうだけで、その色や香りを損なうことがないように、あなた方もまた、人々の供養を自分が疲労困憊しないために必要なだけを受け取りなさい。多くの要求をもちすぎて、人々の心を損なうことがないようにしなさい。たとえばそれは、賢明な人が動物の体力の許容量をよく判断して、荷物を積みすぎて疲れさせないようにするようなものである

suzuki syunryu. zen maind beginners maind two: not always so (samgha shinsyo) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.563-566). samgha. Kindle 版.