豚骨醤油味噌ラーメン

いろいろ書きます。

読書感想文とわたし。

誰かに読まれると思ったら、途端になにも書けなくなる。

文章指南書的な本をひらけば、そりゃもう、3000行くらいにわたって「読む人のことを考えて」と書いてある。

けれど、読む人って誰だ。

 

インターネットには、たくさんの人がいる。

アクセス数を見れば、だいたい自分の記事を何人くらいの人が読んでいるのかはわかる。

 

ちなみにこのブログは平均して一記事40アクセスで、noteは、編集部のオススメに載ったような記事を除けばおよそ1000アクセスだ。

 

とはいえそれはただの数字に過ぎない。

その中にはどんな人がいるのか、相互にフォローしあっている人は別にして、それ以外の人のことはわたしにはほとんどわからない。

仕事を引退し、縁側で日向ぼっこをしながら読んでいるおばあちゃんもいるかもしれないし、眠れない夜を過ごす男子高校生もいるかもしれない。

今から劇的な事件を起こそうと決意している人もいるかもしれないし、最悪の仕事帰りの電車の中で読んでいる人もいるのかもしれない。

 

そういう「可能性」について考え始めると、わたしの思考回路はしゅるしゅると音を立てながら止まる。

わたしがそういう人たちに話すべきことなんて、ひとつもないような気がしてくる。

 

みんな生きててめっちゃえらい。

本当に、えらい。

 

それくらいしか言えることはない。

人に分け与えることができるような、豊かな知識も、豊かな経験もない、そんな気持ちになる。

 

先日、noteでキナリ読書フェスという催しが開催された。

イベントの告知がされた時は「なんて楽しそうな催しなんだ」と思ったものの、記憶がところてん式のわたしは、イベントの開催当日までイベントのことをしっかり忘れていた。

 

キナリ読書フェスとは、「いっせーの」でみんなで課題図書を読み始め、感想文を書こうという2日間に渡るイベントだった。

 

イベント1日目に告知記事を読んで思い出したわたしが、手に入れられる課題図書は『銀河鉄道の夜』しかなかった。たまたま郊外に出かけてしまった後で、大型書店が近くになかったのだ。

 

そんなわけで、半ば消去法的に『銀河鉄道の夜』を読み始めた。

 

これが、最高に楽しかった。「作者はなにを思ってこのセンテンスを書いたのだろう」とか、「この舞台装置が出てくるのって、どういう意味なんだろう」とか、本を読みながらゴリゴリとメモを取り、考えたことをメモしていった。

 

深夜まで過集中のまま突っ走り、つくりかけ

の秘密基地を校庭の裏に置いて帰ってきた子どもみたいに楽しくて眠れず、そして朝には感想文に書き起こし始めた。

 

書き終えると、本文からの引用があるとはいえ、7000字を超える凄まじい読書感想文が出来上がっていた。

 

「こりゃ、あまりにも長すぎるのではないか」と思わなくもなかったが、「楽しかった。こんなに読書に熱中したのは本当に久しぶりだった」という気持ちの方が勝り、そのまま投稿した。

 

わたしは、書く時は「書いている自分が楽しければいい」と思っている。そう思う自分を誇らしいとは思ってない。どちらかというと、「読む人のことを第一優先に考えて」書ける人の方がずっと素晴らしいし、そうなりたいと思っている。

 

書くだけで満足しているなら、ネットに放流しなければいいじゃないか、と思うこともある。

それに、正直なところ、わたしは自分の書いたものに感想を言われるのが好きじゃない。それが褒め言葉であっても、皮肉であっても、同じくらい好きじゃない。

 

こういう態度って、本当にたくさんの人を傷つけたり、不当に扱われているような気分にさせるんじゃないか、と思うことがある。

 

一時期、noteで結構感想をくれていた人も、わたしがあまりにもそれにちゃんと反応しないからかもう感想を送ってくることもなくなった。

申し訳ないことをしたなぁという気持ちと、それはそれでホッとしている気持ちがある。

 

そしてそういう時に、「尖っている人って、アドバイスをもらう機会がなくなるから損ですよ」という記事を読んで凹んだりもする。

 

その言葉に反応するということはある程度自分のことを「尖りすぎ」と思っているということなんだろうけれど、だからといって、知らない人にいきなり話しかけられて心情を吐露されたり、あんまり似ていない境遇を重ね合わされて「わたしにもこういうことがありました」なんて話をされても、困っちゃうのである。

 

つまり、「自分の聞きたいことしか聞きたくない」という究極のわがままボディというか、わがままな自己像が浮かび上がってくるように見えるんだけど、「素晴らしいですね」なんて言われた日には、それはそれで「黙って書くので、黙って読んでください」と思っちゃうあたり、もうわたしの自我は救いようがない。たぶん、どこかの秘境で一度壮絶な孤独に耐えてみた方がいいのだと思う。

 

そんなこんなで書いた読書感想文が佳作(入賞はできなかった)だった。

入賞できなかった悔しさみたいなものはない。こういうと強がってるみたいだけど、マジでない。だって他の方の感想文を読んだ時に、「わたしだけ違う祭り会場に紛れ込んでるくらい、書いてる文章の種類が違うぞ」と思っていたからだ。

わたしの感想文には「わたし」がいないな、と思った。

 

そりゃ、わたしが読んで書いた感想文だからわたしがいないわけではないんだけど、みんな、「本とわたし」がちゃんと対話しているな、と思った。そのことが素晴らしいと思った。

 

わたしは本を、「観る対象」「分析する対象」として扱っている。

 

そのことが、胸にずしっと重たかった。

そして結果発表で、主催の岸田さんが「私は筆者として、分析されるような読み方はあんまりされたくない」というようなことを書かれており、「そりゃそうだろう」と思った。

 

わたしは、ずっと観察して生きてきた人間なのだ。自分の周りで起こることは、すべて観察の対象だった。自分がそこに突っ込んでいて、「参加している」という手応えをかんじたことがほとんどない。

 

わたしがそうなったのにはもちろんそれなりの理由があるし、その原因についての分析はそりゃもう、本が数十ページ書けるくらいだ。数十ページの本って大したことないな。

 

つまりわたしは自分のことでさえ観察の対象として扱っていて、たまに「わたしってマジで死んでるのかな」と思うことがある。

 

「解釈」と「実行」について最近よく考える。

石橋を叩いて割るタイプはこの「解釈」だけが先行していることが多い。

 

そして、人生は「解釈」を繰り返す人間よりも「実行」を繰り返す人間の方が強い。圧倒的に強い。

 

そういうわけで、2021年は「実行」の年にしたいなぁと思っている。

あまりにも論理が飛躍しすぎていて、何の話をしているのか自分でもわからなくなってきたので、今日はここら辺で終わります。