豚骨醤油味噌ラーメン

いろいろ書きます。

「どうせわたしには恋人ができない」

 

年末に、二万円ぶんの本を買ってきた。

お財布に一万円札を二枚入れ、「ここから、好きな本をなんでも買うのだ」と思いながら、大きな書店に行き、そこで棚をひとつずつ回っていった。

 

すると、わたしの行動に不思議な変化があった。

立ち止まることはあっても表紙をざっと見て素通りするだけの棚や、そもそも近寄りもしない専門書(お店の建築とか)のコーナーも、じっくり、時間をかけて見ていたのだ。

 

野生動物の写真を収めた、めちゃくちゃでっかい写真集とか、ゴリラの研究にのめり込みすぎて、あまりにもゴリラに囲まれて生活していたら、久しぶりに自分の顔を鏡に映して見てみたときに、「あれ、ゴリラじゃない」と思ったゴリラ研究家の教授の本だとか(このゴリラの本は、結局買わなかったんだけどいつか買おうと思っている)。

 

「買う可能性がある」というだけで、行動へのコミットの度合いが深くなる、というのは、わたしにとって結構大きな気づきだった。

もしかすると、「本を読む」という行為そのものよりもずっと大切な気づきだったかも知れない。

 

本当の、本当は、「買う」「買わない」は関係なく、お財布にお金が入っていようと入っていなかろうと、自由に棚の間を歩き回っていいはずだ。

気になった本を手に取っていいはずだ。

 

それなのにわたしはこれまで、無意識のうちに、「買う可能性のない本」を避けて本を選んでいたのだろう。

 

ふだんはきっと、「どうせわたしには買えない」と心のどこかで思っているから、その可能性から心を閉ざしていた。

 

要は、「拗ね」だ。

 

ということは、「どうせわたしには恋人はできない」だとか、「どうせわたしには仕事はできない」だとか、そういうものが、可能性の幅を狭めていて、本来は出会えるはずだったものたちとの出会いを「なかったこと」にしている可能性もあるのかも知れないな、と思う。

 

好きな作家さんが、「その人にとって、「これは当たり前にできること」だと思っていることは、当然のようにできる。一方で、「これが欲しい」「これがしたい」と強く望むことは、その人にはできない。その人にとってそれは、「これはできない」と思っていることだから」というようなことをよく言っている。いろんな著書で、表現を変えて、でも結局はそういうニュアンスのこと。

 

わたしはそれを読んで、いつも「わかるような、わからないような話だな」と思っていた。

 

けど、その「お財布に2万円を入れて本屋さんの中を歩く」という経験をしたときに、その言葉の意味が迫ってくるような感じがした。

 

「拗ね」なんだ。結局、人を可能性や出会いから遠ざけるのは「拗ね」だ。

そして、「拗ね」から発せられた願望は、「できない」に根付いているから叶わないんだ。

 

わたしは昔、「恋人が欲しい」という女友達からの相談をよく受けていた。

そういう人たちに、「じゃあ、こういう出会いの場に行ってみれば」とか、「せっかくデートに誘われたなら、好みじゃなくても行ってみれば」とか、言ってみてもまず「やだ」というのだ。

 

どうして?と尋ねると、そりゃもう、怒涛のように、あふれ出すように、「自分にはできない」という理由を話し出す。

 

その子はついに、「〇〇だから恋人ができない」「いや、わたしも〇〇だけど彼氏いるよ。」というようなことまで言い始める。

 

わたしはその度にせっせと、「〇〇でも恋人はできるよ」「大丈夫だよ」と励ましていたけれど、「なんか、底に穴の空いた船から、水をバケツで汲み出してるみたいな、不毛な気分だな」と思っていた。

不毛なのは、わたしの方法が間違っていたからだ。

 

彼女たちが列挙する、「恋人ができない理由」は、その理由があるから「恋人ができない」と言っているわけではなく、「わたしには恋人ができない」という強固な思いが先にあって、それから理由を後付けしているだけなのだ。

 

なるほどな。つまり、その子の中で「どうせわたしには恋人ができない」という拗ねが解消されない限り、周りがいくら「大丈夫」と励ましてもあんまり意味はないんだ。

 

拗ねって面白い感情ですね。

 

ちなみに、そうやって厳選に厳選を重ねて買ってきた本たちはすべて「あたり」で面白く、「新年から幸先がいいなぁ」とほくほくしています。