豚骨醤油味噌ラーメン

いろいろ書きます。

意味のない言葉で画面をうめつくしたい

 

 

 

そういう欲求が、わたしにもある。

ふざけてて(いい意味で)、力が抜けていて、読んでも「なんの足しにもならない」、けれど、読んでいる方も力が抜けてきてほっとする。

 

そういう文章に憧れがある。

「正しさ」に負けなかった文章。わたしは、いつも正しさに負ける。

 

たまに自分でも、「もうちょっと気持ちを楽にたもって、ゆったりとした文章を書きたい」と思う。

けれど、いつの間にかちょっとした豆知識を書きたくなったり、最近読んだ本の中から「いいな」と思った言葉を引用したくなる。

 

読んだ人に、「ちょっとでも有益な情報を持って帰ってほしい」と言えば、なんだか聞こえはいいけれど、要するにこれはわたしの「コンプレックス」に根付いた行動じゃないか?とふと思うことがある。

 

わたしとは違う、どこか別の場所に「正解」がある。

わたしとは違う、どこか別の場所に「普通」がある。

 

そういう風に、強く思っている。

これはみんなそう思っているのか、わたしだけ特に強く抱いている感情なのか、人と話したことはないからよくわからない。

 

ただ、わたしはいつもどうしても「わたしは普通じゃない側」にいて、「『普通』の側に行くにはなにか対価を支払わなければならない」と思っているふしがある。

 

これはもしかすると、年始にnoteの方で書いた『世界は贈与でできている』の話に繋がる話なのかもしれない。

 

そして、そう思っているからこそ、余計に「正しさ」に固執したくなるんじゃないか、と思うことがある。

 

たとえば、「これは34歳が書く文章として『不正解』なんじゃないか」と思ったセンテンスを消す。

「これは、女として『間違っている』文章なんじゃないか」と思ったセンテンスを消す。

 

そういう自意識の『正解/不正解』フィルターを通して出てきたわたしの言葉は、本当に書きたかったことからかけ離れている。

 

もしくは、何かをやる前から、「こんなやり方でやってると思われたら、誰かに何か言われるしれない」と、行動の選択肢を初めから狭くして、「本当にやりたかった方法を回避」して、「やりたかったけど、こんなやり方でやりたかったわけじゃない」という不満しか抱かなかったり。

 

たとえば、本当は「クリームあんみつ」が食べたいけど、「あんみつ」だけで我慢しちゃうような、そういうこと。

 

そういうことを積み重ねていくうちに、「わたしが固執している『正しさ』なんて、こめかみをキリキリ締め上げるだけで、なんにもわたしの役に立ってないなぁ」と思うことがある。

 

「正しさ」にしがみつくのは、きっと自信のない自分が頼れる最後の砦みたいなものだと思っているからかもしれない。

 

だから、今年の抱負は「正しさに負けない」。

 

手始めに、巨大な白鳥のボートに乗って海を漂いたいです。

こういうことを書くと、早速わたしの中の警察がやってきて、「どうやってふくらますのか?」「超絶一般人のわたしが乗ってはしゃげるのか?」「羞恥心に打ちのめされて死なないか?」「帰ってきてどこに置くのか?」など、いろいろなことを言ってきますが、こういう話に耳を貸さない強い心を持ちたいと思います。

 

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