豚骨醤油味噌ラーメン

いろいろ書きます。

日々流れてくるWebマンガに思ってること。

Twitterを開くと、日々さまざまなWebマンガがタイムラインに流れてくる。

商業誌のプロモーションで無料公開されているマンガであったり、描いてそのままアップロードされたマンガであったり、企業からも個人からも大量のマンガが日々公開されている。

 

マンガが流れてくると、つい読みふけってしまう。

その中には、ほのぼのとした新聞連載の四コママンガみたいなものであったり、むかしだと専門書を読んでもよくわからなかったことがマンガ形式でわかりやすく解説しているものもあったり、おそらくインターネットが普及する以前だと出版されることもなく、広く知られることもなかったんだろうな、と思うような壮絶な体験談なども含まれている。

 

ちなみに、ここからはわたしの経験に基づいたただの推測を書き連ねるコーナーです。

 

わたしはもともと他者の感情に巻き込まれやすいタイプで、激しい感情表現があるものを読むと精神的にまいってしまい、その回復に時間がかかるので、できるだけそういう作品を読まないように気をつけている。

 

どうやって避けるのかというと、「いろいろな人の視線を通過せずに発表されている作品」を避けている。つまり、個人が直接的にアップロードしたマンガはできるだけ避けている。

 

感情は生ものだし、強烈な光のようなものだと思っている。

確かに自分が表現するときは、「できるだけ、この生の感情をフレッシュに、リアルに伝えたい」と思うものだ。しかし、読み手として回った時は、あまりにも鮮烈な感情表現があると、目の前で強烈なライトをちかちかとされたみたいに目が眩む。

 

そう、まさに「目がくらむ」に近いのだ。目が眩んでいると、本当に見るべきものが見えない。

 

例えば、子どもが大声で泣き叫んでいる。その声や、こぼれ落ちる涙や、ゆがんだ表情から、子どもが「なんらかの危機に瀕している」あるいは「強烈な不快感を感じている」らしいことはわかるけど、実際のところ、彼(もしくは彼女)がいったいどうして泣いているのかは、泣いている姿のみで推測するのは難しい。

 

それに似ている。

あなたが悲しいのはわかる。苦しんでいるのもわかる。ただ、その泣き声が大きすぎて、その涙の下にある、「本当に訴えたいこと」がわからない。

 

結局のところ、「間に編集者が入る」というのは、「どうして泣いているの?」を何回も繰り返し、わかりにくいところを冷静に書き換え、エピソードを置き直し、「感情と事実の距離を適切に保つ」ということをやっているんだろうな、と思う。

だからわたしは「作品と、作者の間に誰かが入っている」作品を読むほうが好きだ。

あまりにも直接的に感情表現がなされている作品を読んで、「わかろう」とするのはわたしにはどうやら向いていないみたいだ。

 

とはいえ、世の中には「自分を、他人くらいの気持ちで客観的かつ冷静に具に観察することができる」という人もいる。

そういう人の表現は息を飲むくらいすごくて、わたしはそういう人の描いたマンガなら、いくらでも読むことができる。

 

だから、本当は「(実際の第三者が)編集が入っている」というのもあんまり妥当な判断基準じゃない。自分で自分の有能な編集者になれる人もいるみたいだし。

 

それに、編集が入っていてもやっぱり感情表現のみが強烈に前に出ている作品もある。

 

ちなみに、これは「こういう作品が優れている、優れていない」という話ではない。

ただのわたしの好みの問題だ。

 

なんにせよ、わたしが不安なのは、「わたしが好きなタイプのマンガ」は「その人の中で、何年もの時を経てやっと出てきた表現なんだろうな」と思われるタイプのマンガなのだ。

ちょうど、宮沢賢治の『やまなし』みたいに。果物が川底に落ち、時の流れと、水の流れに揉まれ、やがて腐り、さらに熟成していい香りのする酒になるみたいな。

その甘露の酒のようなマンガがわたしは好きで、それは、きっと完成するためにはすごくたくさん時間がかかるのだろうと思う。

 

確かに毎日マンガがWebから流れてくるのはありがたい。ありがたいけれど、おそらくわたしの好きなタイプのマンガは、Webでガンガンと消費と代謝を激しく繰り返す流れの中では、消えてしまうタイプのマンガなのかもしれない、と不安になることがある。

 

消えてしまったらとても悲しい。だから、見つけたら大切にしたい。でも見つけるにはwebが必要なのかもしれない。

 

むずかしいなぁ。