豚骨醤油味噌ラーメン

いろいろ書きます。

「怒るな」という人について

何度かの引越しを経て、いまの家に住んでいる。

いまの家はオール電化で、オール電化の家に住むのははじめてだ。

ガスも使う家と、なにか大きく違うところはあるか?と聞かれると、風呂の追い炊き機能がない、というところくらいだろうか。追い炊き機能のついた、オール電化のお風呂もあるのかもしれないけれど、うちの家には少なくとも、ない。

夜の、電気代の安い時間帯に沸かしたお湯をためておき、日中に使う、というサイクル。

我が家は夫も私も長湯なので、お風呂に入っているうちにお湯が冷めてくることがあり、追い炊き機能がないのはけっこう困っている。

しかも、今日日まさか追い炊き機能のないお風呂が存在するとは想像もしていなかったから、引っ越す前に確認すらしなかった。

 

でも、それはそれとしてオール電化のキッチンは好きだ。ボタンひとつで「中火」とか、「170度」とか選べるし、火災の可能性に怯えることもない。

 

ただ、いつもあのガラスの、つるんとした板の上に水の入った鍋をのせておくだけで、くつくつと沸騰にむけた泡が立ってくるのは不思議だ。いまも慣れない。

気のせいかもしれないが、ガス(火)で沸かしたお湯とはなんとなく泡の立ち方が違うような気がする。

 

私は気になったことをずうっとねちねちと考えるたちで、その上おそらく、自分が想像しているよりもずっと私の心は狭い。

むかしはよく「人と比べてどうか」ばかりを気にしていたけれど、「自分の実力は自分の想像よりも大きいのか、それとも小さいのか」を把握する方がよっぽど大切だ、と思う。

 

挫折の原因って、「想像」と「実力」の間に大きな乖離があることなんじゃないだろうか。

評価されないことよりも、「思ったよりも」評価されないことの方が、心にくる。そういうものなんじゃないだろうか。

 

それはそれとして。

「先週、noteで怒りについてはもうやったし、おんなじテーマで何回も書くのやめようよ」という気もしなくはないが、まぁ媒体が違うからいいか、と自分に言い訳して、今日の日記も怒りについてだ。

 

私は、ずっと一貫して、「怒るな」という人が嫌いだ。

自分でも、驚くほど、嫌いだ。生理的嫌悪、と言っても過言ではない。

 

もちろん、「怒るな」という、彼ら(彼女ら)にも言い分はあることはわかる。

彼らの言い分を想像するに、「怒っている人のぴりぴりとした雰囲気が苦手だ」、「怒声が嫌いだ」、「怒ることで自分の言い分を通そうとするところが嫌いだ」、完璧に想像することはできていないかもしれないけれど、そんなところだろうか。

 

彼らの言い分を想像して、こうして書き出してみても、私はやっぱり「怒るな」という人が嫌いだ。

怒りは人から発散されたエネルギーで、そのエネルギーに圧を感じるのはわかるけれど、怒りのエネルギーはまっすぐなのだ。

それに対して、「怒るな」という人もエネルギーを発している。

しかも、彼らだって「怒り」を発している人と同じ、「人を抑圧する傾向」のエネルギーを発している。それは、「怒りそのもの」に比べると、確かに静かかもしれないけれど、鬱屈した、まっすぐには進まない、暗くてネチっとした嫌な気を感じる。

まるでオカルトだけど。

 

私の怒りは、「厄払い」のようなところがある。

嫌なことをされた時に、「もう二度と、私に近寄るな」という意思表示。

私が正しくて、相手が間違っているとかいう話以前に、「何をされても嫌な人」っているし、それはもう、「相性」の問題だ。理屈じゃない。

 

それすらも、見るのが嫌だという人は嫌なんだと思う。

 

でも、気になるのは、そういう人って嫌なことをされた時にどうしているんだろう?ということだ。耐えてるの?自分の体に、嫌なことの責任を全部押し付けて、そうまでして『いい人』でいたいのか。その上他者の怒りに干渉までしたいのか、すごいな、と思う。

自分に「我慢してね」って押し付けた怒りや、ネガティブな感情は、我慢したところでどこにも消えないんだけどね。

 

なんてことを、朝から考えてる私の方が、超絶暗いのでは。

まぁいいか。