豚骨醤油味噌ラーメン

いろいろ書きます。

線を引く

 

 

気を抜けば、自他との境界があやふやになる。

あの人の人生に起こった苦しみは、私の苦しみとなり、同じくらい自分の胸を締め付ける。

 

そういう傾向があった。はっきりとした時期は覚えていないけど、おそらく高校生くらいの頃に、「こんなに他者の感情にずぶずぶになってたら、生きていけない」と思って、それから他者の感情をシャットアウトすることになった。

 

自分と、他者の区別をすること。自分と、他者は違う人間だと認めること。

 

この作業は、思ったより大変だった。区別がちゃんとつくようになったのは最近と言ってもいいくらいだ。

 

私の母は、「そんなことをして、お母さんが悲しむと思わなかったの」という怒り方をする人だった。「お母さん」の気持ちをちゃんと想像する、というのは、その文面だけ聞くといいような感じがするかもしれないけれど、「バクチの結果を予測できなかったら、とんでもない折檻が待っている」というのと同じ意味だった。

「それをやったらどんな気持ちになるか」なんて、自分だって想像できないのに、ましてや他人である母の気持ちを100パーセントの確率で当てるなんて無理だ。

 

だから、私は、「他者と自分の気持ちを極端に重ね合わせて考える」人間になったわけだけど、それは自分と他者との境界をどんどんとっぱらっていくことだった。

 

「他人を、自分と同じ重さで考える」というのは、それこそ血縁でもない限り耐えきれない重圧だ。

 

だから、話はそれるかもしれないけれど、「介護」や、「公的支援」が「全く関係のない第三者によって施されること」にはとても大切な意味があると思っている。

 

たとえば生活に困窮している友達を、特に金銭の絡む方法で助けるのは、それこそ肉親を思うくらいの気持ちの覚悟じゃないといけないのだろうな、と思う。「人が自立するまでの世話をする」というのは、それこそ親の仕事じゃないですか。親がやるべき、という意味じゃなくて、「親くらいの、関わりの糸が太い人」がやる仕事という意味です。それか、「その支援をやることこそが私の仕事だ」という人。つまり、親でも、仕事でもない人が、人の生活を支えるってすごく大変なことだろうな、と思う。

「これくらいの金額なら」で関わってはいけない仕事のような気がする。親くらいの太い糸を結びたいのならともかく。あと、「金は出すけど口は出さない」ができるくらい、とんでもない大富豪とかなら、可能性もあるかもしれない。

 

この、「線を引く」の訓練がまだちゃんとできない時、SNSはつらい場所だった。

コミュニケーションの土台が、「自分よりも先に相手の気持ちを考える」で形成されてしまっているものだから、自動的に「相手」として対峙した人の気持ちを考えてしまう。

 

そうかくと、「いい人そう」という感じがするかもしれないけど、「怒られないようなコミュニケーションをしなくちゃ」と気張っていて、自分では他者のことを考えているつもりだけど、実は「怒られない自分」のことしか考えていない上に、めちゃくちゃくたびれるところだった。

 

 

「今、自分は誰の気持ちを予測しようとしてて、どんな結果を回避するためにそれをやろうとしている?」

と、何べんも自分に問いかけることによって、次第に他者との線を引くことができるようになった。

 

ちなみに、そんなわけで「類友」というか、「自他の境界がうまく引けない人」って、自分のことのようになんとなくわかるから書くと、自他の境界がうまく引けない人は、私が今書いたような、「何遍もやった」「次第に」できるようになった、を無視しやすい。

「あの人」と「私」の線が引けないから、「あの人にできたから、私にもできる」を、ある意味歪んだメッセージとして受け取る。

「あの人のやったことは、私のやったこと」という処理を頭の中でしてしまい、積み上げるべき訓練を積み上げずに、「私にもできるはずなのに、どうしてできないんだろう」という怒りを感じやすい。

 

「線を引く」って実はすごく大切なスキルだけど、その冷たい印象からかあんまり論じられない印象があるよな、という気がしたので書いてみた。

 

また気が向いたら書く。