豚骨醤油味噌ラーメン

いろいろ書きます。

「自分を生きる」とは

 

「よい問いを立てることができたなら、それはもうほとんど解決したのと同じことだ」というような名言があったと思う。

 

「あったと思う」というのは、いつかどこかのブログか本で読み、「なるほど」と思ったもののどこで読んだのか思い出せないということです。

 

今日みたいに題材にしたくなったときのために、いつも本を読んだら『しるし』をつけておこうと思うんだけど、私はたぶんしるしをつけるのが下手なんだと思う。

いちおう、本棚の中には「これは」と思う箇所に付箋を貼った本もある。ただ、その付箋を貼ってある本を「あの本から引用したい」と取り出すことはほぼない。というか、一度もないかもしれない。

 

読み進めていくときに「お」と思うところと、後からしみじみと、「あれってどういうことだったんだろう」と思い出す場所は、いつもだいたい違うところだ。

 

それがどういうことなのかわからないけれど、旅行で「写真に撮りたくなる場所」と、旅行のあとで「あそこのあの景色はよかったな」と思い返す場所が違うようなものだろうか。

たんに自分の好みがまだ把握できていないということなのだろうか。

 

先日、Twitterでこんなツイートに出会った。

 

 

 

「なんで彼は私のことを大切に扱ってくれないんだろう」という問いよりも「なんで私は大切に扱ってくれない男の相手をしているんだろう」という問いのほうが大事です。

 

このツイートを読んだとき、「それだな〜!!!!」と膝を打ちまくった。

もしもタイムマシンに手紙を乗せて、10代のころの自分に送ることができるなら、このツイートを100枚くらい印刷して送りたい。

 

まさに、「よい問いを立てることができたら、解決したのもほとんど同じ」の好例だな、と思う。

 

最近、「自分を生きる」とか、やたらと「自分」にフォーカスしたアドバイスをよく聞くようになった。

あまりにも流行りすぎて、「自分のことだけを考えて生きるのは無理だ」とか、「自分」にフォーカスを当てることに苦痛を感じる人さえ見かける。

 

それでも昔よりも時代は変化しているんだな、と思うのが、「自分を生きる」なんて台詞、もしも10年前なら流行らなかっただろう、ということだ。

「ジコチュー」って鼻で笑われて終わりだったと思う。

私はちなみに、「自分を生きる」という言葉が流行ってくれたおかげで、『悩みとは、「自分が行動すれば解決する悩み」と、「誰か(世界)の性質が変化しない限り解決しない悩み」の二種類に分けることができる』ということに気がつき、慢性的に感じていた「生きることの苦しみ」が大幅に減少した。

 

どうして「生きる苦しみ」が減るのか?

 

それは、「他者」というのは重たいからだ。

「重たい」というのはどういうことか?

 

たとえば、

「今から道を歩き、そこで最初に出会った人にどうにかしてピザまんをおごってもらってください」という指令と、

「今からコンビニに行き、ピザまんを買ってきてください」という指令の、どちらが達成するのが簡単だろうか。

圧倒的に後者ですよね。

 

私は悩みを「自分が行動すれば解決するかどうか」という軸で見るようになって、圧倒的に気持ちが楽になったし、昔はその軸さえ持っていなかったから、「どうして私の人生はこんなにも困難なんだろう」と思っていた。

なんてことはない、「動かすのが難しい物事(世界、他者)を動かす方法について考えていた」だけのことだった。

 

「自分を生きる」という言葉が流行り始めたとき、その意味の「つかめなさ」に途方にくれた。

ぜんぜん意味がわからなかった。

わがままを押し通すこと?

自分勝手を極めていくこと?

つまり、自分の欲望に忠実になっていくということ?

 

おそらく、それはとてもシンプルで、ただ、「今までうやむやになってきた境界線をしっかり引きましょう」ということだと思う。

 

私たちの自他の境界線は、学校教育によって一度踏み荒らされる。

 

たとえば、「髪型を決める」にしたって。「私の体のこと」なのに、「学校がそのフォルムの決定権を持っている」という境界線のちぐはぐさ。

 

そういう風に、「境界線を踏み荒らされること」にあまりにも慣れすぎると、「境界線が溶け合っていること自体に気がついていない」というところにまで行ってしまう。

「よい問いを立てる」ということ。

 

むずかしいけど、立てた問いに対して「ウンウン」と悩んでしまうときには、「そもそもこの問いはよい問いだろうか?」と考えてみるのもいいのかもしれない。